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「事」を先送りしてませんか?

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1105-06 現代日本人の多くは、「明朝、目が覚めても、これまでと変わらない日常が続いている。」と思いこんでいるように思えるのです。で、その根拠は何なのでしょうか?昨日まで、ピンピンしていた人が突然、亡くなるなんて話、別に無い訳じゃないですよね。昨日まで普通にしていた人が、翌朝、脳梗塞だったかで目の前で倒れられたのを見たことがあります。その方は、そのまま、救急車で運ばれましたが、一週間ほどして、亡くなりましたよ。
また、百歩譲って、仮に病気でなかったとしても、事故という可能性もあるわけでしょう?これだけ、車が走っているんです。
自分が気をつけていても、交通事故に巻き込まれるってこともありますよね?私自身、検査手術で日帰り入院したところ、初歩的な医療ミスで、あと少しで死ぬところだった・・・という経験がありますよ。(妙なもので、このとき、病院に行く前に、ちらっと一瞬、「人間って、案外、こんな何でもないことで死んだりしてね・・・」って頭をよぎりました。でも、すぐに、「いくら何でも、検査手術なんだから、そんなことあるはずがないよな」と思い直し、そのまま、病院に向かいましたが、そのとき、心底にあったものは、間違いなく「まさか、俺が・・・」という根拠のない思いこみでした。)
さらに言えば、地震もまた然り。今回の東日本大震災で亡くなった方々は、誰もが翌朝も、翌々朝も、目覚めると同じ日常が続いていると、信じて疑われなかったのではないでしょうか?
そう考えれば、藤堂高虎のような戦国武者で無くとも、今日、布団に入るときに明日も同じ生活が続いていると考えることは、単なる思いこみに過ぎないのではと思えて成りません。
・・・何だか、保険の勧誘みたいになってきましたね(笑)。
もっとも、そう、イチイチ気にしていたのでは、到底、生きていけないのも、また、現代社会の動かし難い現実です。
(ユリウス・カエサルは、数々の暗殺の危険に対し、「怯えて生きるよりも死んだ方がマシ」と意に介さなかったとか。)
私が言いたいのは、別に保険の心配をしろということではなく、「事」を先送りしてませんか?ということです。
先送りとは、明日も、明後日も、いつもと変わらない日常が続いていることが前提なのですから・・・。
「この世に生を受けたるは事を成すが為にあり」と言います。
その意味で、藤堂高虎のこの言葉は、平和社会に生きる現代人に、「刹那刹那を疎かにすることなく生きる」ことの意義を問いかけているように思えて成りません。
ということで、一献、誘うなら今ですよ、御同輩・・・。
(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)2011-05

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