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道標となるもの

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1211-4「敵を知り、己を知らば、百戦するとも危うからず」って、ご承知の通り、これは有名な孫子の兵法の一節ですよね。この点で最近、良く若い人の間で、「金が欲しい」、「金持ちになりたい」って言葉を耳にしますが、では、これをこの孫子の論法で説くならば、まずは、「金を知る」ことが必要でしょう。

では、そもそも「金」って何ですか?お金の持つ交換、時間、保存などの特徴を述べるのは、今更、釈迦に説法ですのでここでは述べませんが、自分なりにこれを突き詰めて考えてみるならば金とは「サービス券」ではないかと思うんです。

子供が父の日に、お父さんに肩たたき券を1枚あげる。お父さんはその日でなくとも、肩が凝った日にそれを出して肩を揉んでもらえるし、もっと集めて別のサービスと交換してもらうよう交渉することもできる・・・。それをさらに高度化、複雑化したのが「お金」だと。

何が言いたいかというと、要は「金が欲しい」と言うのなら、人が「して欲しい」と思うサービスを提供すればいいわけで「人はこれをして欲しがっている」とか、「これがあったら皆、便利だろうな」などということを積極的に人に施してやればいいんですよ。

逆に、自分がそれをして欲しいなら、相手にも何らかのサービス券をあげてしてもらわなければならない。どれくらい、自分のサービス券を相手に渡してまで、それをして欲しいか?ということでしょう。ただ、皆がそのサービス券が欲しくなればそこに競争が生まれるわけで、となれば、人がして欲しいことを言われてやっていたのではもらえる確率は低くなります。たくさんサービス券が欲しいなら欲しがるであろうサービスを言われる前に提供しなければならないわけで、かつ、満足させればなお良しです。

ところが、この論理には範疇外の事象があります。それは誰かの持っているサービス券を奪ってしまうこと、即ち、泥棒です。

だから、泥棒は公権力によって厳しく取り締まられているわけでしょうが、でも、現実には、「浜の真砂は尽きるとも・・・」ではないですが、泥棒の種は尽きないようです。

この点で、分かれ道で、もし、迷うようなときには「倫理」というのは、確実に一つの「道標」(みちしるべ)にはなるでしょう。まったく迷わないならこの限りではありませんが、もし、わずかでも迷うようなら倫理に背かない方に行けば、とりあえずは間違いないと思いますよ。(小説家 池田平太郎/絵:そねたあゆみ)

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