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男の決断に対する評価

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0808-04河井継之助という人物がいました。
言うまでもなく、幕末、長岡藩を率いて激越な北越戦争を戦った人で、司馬遼太郎氏の小説で採り上げられて以来、一躍、脚光を浴びるようになった人物ですが、実は私あまり評価しておりません。
その理由は、まず彼がやったことは、「多くの人を殺して、国を小さくして次代に申し送っただけ」という、ナポレオン同様の結果論もながら、何より、開戦に当たって、どうしても確たる勝算があったようには思えないからです。
つまり、「戦って勝てたのか?」と・・・。
長岡藩は、如何せん、わずか7万石の小藩であり、いくら、実収14万石と言っても・・・、また、最新兵器で武装したと言っても、日本の半分を引き受けて戦うには、あまりにも地力不足ではなかったかと思えるのです。
ただ、元々、河井が託されていたのは、藩の財政再建であり、時代が「泰平の世」で終わっておけば、彼は「財政を見事に立て直した名宰相」で終わったでしょうが、この点は如何せん運が悪かったと思います。
しかし、大政奉還後の混乱に在って、江戸藩邸などを処分した金で当時、日本に3門しかなかったガトリング砲2門や、フランス製新式銃2千挺などを購入したのは極めて不適切な処置だったと思います。
小藩が中途半端に、こういう物を持つのは弊害の方が大きくなるからです。もっとも、河井は何も最初から、「戦争ありき」でもなかったとも事実でしょう。
この点では、開戦前、河井は、新政府軍本陣に乗り込み、「自軍の充実ぶりを背景に長岡藩が東西両軍を調停する」という構想を披瀝しようとしたものの、新政府軍軍監として交渉の場に出てきたのが、土佐の岩村精一郎という見識低い「若輩者」であったことが、河井の不運のように言われていますが、私はこの点では、岩村の判断を支持します。まず何より、新政府は別に長岡藩の仲介など必要としていないわけで、河井には河井なりの理想があったようですが、その意味では、理想の押し売りに過ぎないとも言えるでしょう。
勝算というならば、長岡藩が粘っているうちに、心ならずも新政府に従っている反対勢力が立ち上がってくれるということを期待していた・・・とも考えられますが、もし、そうであるならば、それはあまりにも無責任にすぎる勝算と言えたでしょう。こういう場合の付和雷同は世の常、大坂の陣において、豊臣恩顧の武将たちが誰も立ち上がらなかったことが良い例で、無論、楠木正成の千早城のような例もありますが、このケースは、正成に勇気づけられて我も我もと決起したわけではなく、足利尊氏という大勢力を保有する人の野心の結果という面が大きく、言い換えれば、単に付和雷同すべき対象が変わったというに過ぎないともいえるわけです。その意味では、「立ち上がってくれるかもしれない」というそれは、あくまで希望的観測に過ぎないと。
総括するならば、まず、河井が構想として描いていたと言われる「両軍の調停」自体、夜郎自大の観は拭えず、それが不調に終わって、あれほどの大戦争の戦端を開いた・・・、特に戦争終結の見通しを持たずに開戦したことは、あまりにも軽率な行動だったと責められても仕方がないと思います。
(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)2008-08

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