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「国富て民貧す」と「民富て国貧す」

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1210-4享保の改革で知られる八代将軍徳川吉宗に対し、尾張藩第七代藩主徳川宗春は、それを真っ向から否定するような政策を打ち出したことで知られています。
質素倹約、質実剛健を旨とし、大奥をリストラし、自らも質素な服をに身を包み、食事の品数を減らすまでして国家財政立て直しに奮闘した吉宗に対し、宗春は「消費を抑制することは国民生活を苦しめ、結果的に財政再建に逆行する」として、名古屋城下に遊興施設を誘致し消費拡大政策を採る・・・。
二人の主張は、今日でもどこかで聞いたような話にも聞こえますが、これは、どちらが一方的に正解で、どちらが一方的に不正解という類の物ではないように思います。
すなわち、民主制というのは、とかく、選挙民からの指示を得るために国民の歓心を買おうとする傾向があり、その結果、「民富て国貧す」となりがちであるのに対し、独裁制というものは、基本的に民意というものを顧みる必要がないことから、「国富て民貧す」という可能性が高くなるわけで、この辺は我々の生活が貧窮するのも困るものの、バラマキの挙げ句に国家財政が破綻するというのも、結果的に我々の生活に大変な災厄をもたらすということを考えれば表裏一体、自己矛盾のジレンマと言っても良いのかもしれません。
ちなみに、吉宗は紀伊家の四男から将軍に登り詰めた人ですが、宗春も尾張家の十九男として生まれており(吉宗が12歳年長。)、これは普通は家督を継ぐことなく、他家に養子に出るか、そうでなければ一生を厄介者として生きることを宿命づけられていた存在であり、それが、将軍と尾張藩主になったわけですから、当初、吉宗は自分と似た経歴のこの分家の当主に親近感を持ってこれを迎えたと言われています。
しかし、尾張藩主となった宗春は、紀伊家出身のこの将軍が気にくわなかったのか、あるいは厄介者であった頃に吉宗の財政再建のための緊縮財政による庶民の窮乏を目の当たりにしていたこともあったのか、吉宗の政策を真っ向から否定するような消費拡大策を打ち出します。
これにより、少なくとも名古屋城下に限っては、倹約令で停滞していた街は活気を取り戻しますが、当然、将軍吉宗としては容認しがたい話であり、宗春が参勤交代で江戸へ下った際には詰問の使者を差し向けています。
このとき、宗春は、一応、上意として受け賜ったものの、尾張藩主と幕吏という立場に戻った後は整然と反論し、使者を黙らせたと言いますから、単なる吉宗への当てつけなどではなく、彼には、それなりの自分の政策に対する理論的裏付けがあったように思えます。
しかし、この路線対立の結末は宗春の一方的敗北で終わります。
消費拡大によって経済の活性化を図るという政策は、どうしても爛熟退廃の気風に繋がりやすいもののようで、尾張藩のモラル低下も目に余るものとなった上、消費刺激策という名のバラマキを続けてきた結果、藩財政はついに破綻。
バブル崩壊により財政赤字に転落したことから、庶民に増税を課したことで民衆の支持も失い、頃合い良しと見た吉宗は、将軍家との対立を案じていた尾張家重臣団と呼応しクーデターを敢行、宗春は失脚に追い込まれました。

(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)

 

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