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江戸時代もゴミ問題あり

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2007-02-1江戸時代、江戸はエコロジーならぬ、エドロジーと言われるほどに環境循環型社会がうまく機能していたと言われていますが、少し、よく言われすぎのような気もします。
元来が、埋め立て地だけに、井戸から飲料水がとれず、木製の水道を引いて、水源地からはるばる、井戸の下を通し、飲料水にしていました。驚くほどに近代的な発想ですが、逆に言えば、それだけに一旦、床下浸水するようなことになると飲料水に汚水が混じり、伝染病が発生する元になっていたとも言います。
この点では、江戸時代の福岡博多もまた同様で、博多も井戸水が出ないので、大正以前、まだ、水道が普及する前は「水売り」が水を担いで売りに来ていたそうです。
今でも、博多は人口の割に、安定した水源が無い為、雨が降らないと、すぐに、渇水になってしまいます。ゴミもまた然りで、紙でも布でも使えなくなるまでリサイクルして、初めて、捨てていたと言います。
しかし、それほどに、うまく循環し、機能していたはずの江戸時代も、時代が下り、江戸中期頃になってくると、ゴミ問題が浮上してきたと言われています。
筑前福岡藩の領主、黒田家は、関ヶ原後、筑前に入国すると、博多に入らずに、その東、福崎の地に城を築き、ここを福岡とした。同時に、博多の東隣にある石堂川(現御笠川)を防衛線に想定し、この川の西側(博多側)に、たくさんの寺院を配置した。お寺というのは、広い敷地をもっていた為、兵隊が集結都合が良く、さらに、戦闘になった場合には、墓石などが防御の役に立ったといいます。
この石堂川に、二本の橋が架かっていました。当時、橋の修理費用は藩の負担だったが、清掃を始め洪水の監視など、橋の管理自体は博多の町方がやっていた。ところが、この頃になると、橋のたもとには博多の人々が捨てる、たくさんのゴミが溜まるようになっていたとか。ゴミは、普段はともかく、川が増水したときなどは、ゴミに堰き止められた水流が橋ごと押し流してしまう危険性がある為、『博多津要録』によると、享保19年(1734年)、付近の10町は連名で「石堂口の橋の周辺にゴミを捨てないこと」を誓約したという記録が見受けられます。
享保4年にも、博多の西隣、つまり、福岡と博多の間に流れる那珂川でも、藩より、「川筋、不行儀にこれあり。川へちりあくた(塵芥)を捨てざるよう・・」という達示があったそうです。
つまり、現代のように無機物ゴミなどない、理想の環境循環型社会と思われていた江戸時代でも、実際には、しっかり、ゴミ問題が存在したと言うことです。
(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2007.02

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