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小牧長久手の戦い

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小牧長久手の戦い 小牧長久手の戦いという物があります。織田信長の死後、羽柴(豊臣)秀吉と徳川家康の間で戦われた戦いですが、戦い自体は両軍睨み合いの後、秀吉軍が動いたところを家康が奇襲、家康の勝利となって後の家康の天下獲りの伏線となったと言われています。ただ、この戦いは実際の戦闘だけではなく、勃発から決着までを含めた一連の流れで見ると、秀吉と家康、まさに名人戦の趣があります。
まず、秀吉は信長の死後、織田家の内訌を制し、その遺領の大半を得ます。一方、家康はその間、信長の死によって無主の地となっていた甲斐(山梨県)、信濃(長野県)を併呑しますが、しかし、信長は天下統一目前だったわけですから、この時点で秀吉の領土はどの大名よりも圧倒的に大きく、おそらく黙っておいても家康はすり寄ってくると考えていたでしょう。ところが、家康は、信長の次男、信雄から応援要請を受けると敢然と立ち上がります。この時、家康は脂が乗り切った満四一歳。数々の難戦をくぐり抜けてきたことで、それなりに自信があったのでしょう。まず、対立が始まると、両者はそれぞれに巧みな外交戦を展開します。両者がとった戦略は、「自らの背後を固め、相手の背後にいる勢力と結ぶ」というもので、しかしながら、敵もさるもの引っ掻くもの。家康が背後の北条と同盟を結ぶと、秀吉は背後の毛利を手懐け、さらに、秀吉が北条を牽制すべく、その背後の佐竹と結べば、家康は同じく秀吉の背後の四国の長宗我部や紀州の根来や雑賀衆などと結ぶ。北陸では、家康が秀吉嫌いの佐々成政と結べば、秀吉は盟友の前田利家を差し向ける・・・と。その結果、秀吉からすれば長宗我部は毛利が牽制してくれたものの、紀州勢は秀吉の留守を狙って堺や大坂に攻め込み、秀吉はたびたび、家康と睨み合いが続く戦場から抜けて大坂へ戻ることを余儀なくされています。
しかし、秀吉は長久手で一敗地に塗れた後、一転、外交攻勢に出て家康を圧倒。やむなく、家康は次男を人質として差し出し秀吉と講和。講和したことで家康が表立って動けないことを尻目に秀吉は紀州や長宗我部元親を制圧。追い詰められた家康は北条との結びつきを強めざるを得ず、これに従おうとしない真田昌幸を攻めて大敗。この辺はちょうど、アメリカがベトナムを攻めて苦戦するのを見てソ連がほくそ笑み、ソ連がアフガニスタンを攻めて上手くいかないのを見てアメリカが喜ぶ・・・と同じような観があるでしょうか。家康は絶体絶命の窮地に追い込まれ、秀吉と戦ったことを後悔したでしょう。ところが、ここに天正大地震が起こり、秀吉方に甚大な被害が出たことから秀吉も軟化。結局、家康は秀吉に臣従するという結末を迎える。つまり、小牧長久手の戦いとは、戦闘は家康の勝ち、戦争は秀吉の勝ち・・・だったでしょうか。(小説家 池田平太郎)2016-08

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