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徳川家の兵学校

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%e3%82%ab%e3%83%a9%e3%83%bc%ef%bc%95 幕末、大政奉還の後、徳川家は鳥羽伏見の戦い、江戸開城などを経て、それまでの800万石から駿府藩70万石の大名として存続することになった徳川家。改めて、今更ながらに旧幕臣の子弟らに対する教育の大切さを痛感したのでしょう、移封早々の明治元年(1868年)、沼津城に兵学校を開設しました。校長には先の将軍、徳川慶喜の信頼厚い学者で、西洋新知識にも精通する旧幕府の最高の頭脳、西周(にしあまね)を据えた辺り、並々ならぬ意気込みが見て取れるでしょうが、ところが、ここへ入校を命じられた旗本御家人の子弟らは、門閥家らしく、仙台平の袴に朱鞘の大小を差し、立派な行儀作法で颯爽と試験官の前に出たものの、驚いたことに、旧幕府の重臣である酒井雅楽頭(うたのかみ)を「さかいがらくのかみ」、井伊掃部頭(かもんのかみ)を「いいはらいべのかみ」と読んだとか。酒井も井伊も徳川四天王の家柄で、おまけに、井伊掃部頭の方は幕末に安政の大獄を引き起こし、大老でありながら桜田門外の変で暗殺された井伊直弼がいたわけですから、いくら過去の人とはいえ、それが読めなかったといういのはかなり驚きです。
さらに、学生の中には、唐の安禄山(中国唐王朝に反乱を起こした将軍)を問われ、「唐にある富士山より高い山」と答えた者もあったらしく、西周を始めとする教授陣は「諸君らは旗本御家人というだけで士官となっておられたから、徳川も他愛なく滅びて、鹿児島の兵隊にやられたのだ。」と嘆いたとか。もっとも、中には後に明治新政府で頭角を現した人々も少なくなかったといいますから、皆が皆、そういう人たちばかりであったわけでもないのでしょう。
それに何より、教授連が比較対象とした「鹿児島の兵隊」の方も実態はどうだったかというと、こちらも実態はあまり大差ないところだったようで、西南戦争時の西郷軍の副将格だった桐野利秋は「陛下」を「カイカ」と読み、指摘されると「おいに学問があったら、天下をとっちょる」とうそぶいたとか。実話かどうか知りませんが、上司である西郷隆盛も「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾人の及ぶ所に非ず」と評したといいますから、いずれにしても、あまり学問がなかったのは事実なのでしょう。また、同じく薩摩出身で日清戦争時の連合艦隊司令長官・伊東祐亨は新聞記者を捉まえ、「ハイバツのバツはどう書くのだ」と言ったという話もあります。記者が「ハイバツって何ですか?」と問うと、「拝謁」のことだったと。つまり、「閥」と「閲」の区別がついていなかったわけですね。ちなみに、偉そうなことを言ってますが、私も「未」と「末」が違うことを30歳くらいになって初めて知りました(笑)。
(小説家 池田平太郎)2016-11

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