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心地よい響きを持った言葉の裏の哀しい現実

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絵:そねたあゆみ

 オスマン・トルコの皇帝は歴代すべて皇帝と奴隷のハーフである。つまり、歴代皇帝の母はすべて奴隷として売られてきた、もしくはさらわれてきた女性ばかりで、特に美人の産地として有名だったコーカサス地方の女性が多かったと。もっともスルタンの周囲を彩ったのは何も美女の奴隷ばかりではなく、近衛兵ともいうべきイエニチェリ軍団もすべて奴隷であり、特にバルカン半島出身の少年が多かったと言われ、その意味では、ヨーロッパ人がこれを見て、「オスマン・トルコは皇帝以外全部奴隷」と言ったのもあながち間違いではなかったであろう。

 革命の父、ケマルにより、そのオスマン朝が滅ぼされたことで、皇帝の後宮、ハーレムの女性たちは皆、「解放」されることになったが、日本の江戸城明渡しの際の大奥とは趣を異にする。大奥にいた女性たちはその大半が名門名家の出か、もしくは、十分な教養などを身に着けたキャリアであり、個人的蓄財もそれなりにあったろうから、大奥を退去してもそれほど行き先には困らなかったであろう。が、ハーレムの女性たちはそうではない。幼くしてハーレムに売られてきて、皇帝の相手をすることだけしかしてこなかった人々である。いきなり、「解放する」と言われてもどこへ行っていいかわからず、「自由にしろ、好きな所へ行け」と言われても行く宛もない。自ら、衣食を得る術を持たない人々なのである。多くがその後、どういう人生を歩んだかは想像に難くないであろう。ある女性は「スルタンの愛妾」ということで西欧の酒場で見世物となったとも聞くが、これが、「解放」という心地よい響きを持った言葉の裏にあった哀しい現実である。

 もっとも、実は同じ事は日本でもあった。無論、大奥ではない。明治5年、横浜に寄港した南米ペルーの船から夜中に男が一人、海にとびこみ、碇泊申の英国軍艦に泳ぎついた。その船には、清国で買われた男の奴隷231名が監禁されており、「助けてくれ」と訴えた。英国は日本政府にその解決を求め、政府は神奈川県権令に裁判を命じた。県令は奴隷売買は国際公法違反であると判決を下したがペルー側は引き下がらない。「人道上から外国奴隷を解放するという日本は、遊女という奴隷を売買し、その自由を拘束するを認めているではないか!」という抗議があり、これには日本政府もぐうの音も出ず、結果、やむなく、芸娼妓を解放する。もはや一生浮かばれまいと諦めていた女も、晴れて自由の身となって、嬉々として親元へ帰って行ったがその喜びは続かない。解放したものの、彼女らの受入体制も更生施設もない以上、早速、その日から食えなくなった者が出たる始末。結局、彼女たちが帰る所はなかったという哀しい現実がここにもあった。(小説家 池田平太郎)2018-10

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