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大久保の心中  

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絵:そねたあゆみ

 文化大革命の時、毛沢東の命令に従い、同志である劉少奇国家主席の粛正を実行しようとする周恩来に対し、部下が、「こんなことをしていたら、死んだら地獄行きだ」と諫言したところ、周は、「私が地獄に落ちずして誰が落ちますか」と言ったという話があります。実際、中国には「周は体を張って、毛の暴挙を止めなかったからけしからん!」という声があるそうですが、もし、そうすれば、単に周が失脚して、もっと忠実に命令を実行する人に変わっただけで、惨禍はさらに拡大したでしょう。

 ドラマ「踊る大捜査線」の名ゼリフ、「正しいことしたいなら偉くなれ」はけだし名言だと思います。で、思うのが、西郷隆盛亡き後の大久保利通の心中もまた然りではなかったかということ。

 実は、私はかねてより、大久保暗殺の際のあまりの無防備ぶりに違和感を抱いていました。事実、暗殺犯である石川県士族らは事前に大久保宛てに殺害の予告状を送っており(まあ、大久保としても脅迫状はこれに限ったことでは無かったでしょうから、一々、真に受けてはいられないということだったのかもしれませんが)、さらに、暗殺犯らの石川県出発は県令がすぐに警戒の必要があることを通報しています。

 しかし、このときも、同じ薩摩出身の川路利良大警視は、「腰抜けに何ができるか!」と吐き捨てただけで何の対策もとらなかったとか。これは、当時、まだ、要人を警護するという発想が無く、他の高官らにも護衛がついていなかったらしく、大久保だけに護衛をつけるというのは、大久保を臆病者扱いすることに繋がり、「勇気」至上主義の薩摩人にとっては侮辱に値する行為という思いもあったようです。確かに、大久保のこの豪胆な姿勢が脆弱な基盤の明治政府を支えていたともいえ、それは85年後、敢えて無防備でダラスに降り立ったケネディにも通ずる「覚悟」であったでしょうか。ただ、それでも、政府の最高権力者が、護衛も付けず、馬車一台で通勤していたというのは釈然としない部分があるのですが、大久保に、「盟友西郷を非業の死に追いやっておいて自分だけ安らかに死ぬわけにはいかん」という意識があったとすれば説明がつくような気がします。

 ちなみに、この前年には、残る維新三傑の一人、木戸孝允もこの世を去っていたことから、大久保死後は、再び、「同格」ばかりの時代になってしまい、結果、山県有朋の影響下で軍部の発言力が増大、後の日本に暗い影を落とすことになるわけです。もし、大久保が生きていれば山県も勝手なことは出来なかったはずで、つまり、大久保の死は単に大久保独りの問題では無かったということですね。

(小説家 池田平太郎)2019-03

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