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人は鬼にも人にもなる変幻自在の生き物  

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絵:そねたあゆみ

 世の中には、「人を見たら鬼と思え」ということわざがありますよね。ところが、一方で、「渡る世間に鬼はなし」という言葉もある・・・、では、果たしてこれはどちらが正しいのでしょうか。答えは、おそらく、どちらも正解なのでしょう。これには、二つの考え方があると思います。まず、一つは人間社会とは善人ばかりで構成されているわけでも悪人ばかりで構成されているわけでもない・・・ということがあります。よく、「あの町の人は見下したようなことばかり言うから嫌いだ!」などという声を聞きますが、だからと言って、その地域の人すべてが、そんなに悪い人ばかりでもないでしょう。同じ事は、外国人にもいえるわけで、よく、「OO国の人は悪いやつだ!」という人がいますが、いつも私はそれに対しては、「それは何人が悪いんじゃなくて、そいつが悪いんだ。日本人にだって嫌なやつはいるだろう・・・」と言います。実際、いい人ばかりの国もないし、悪い人ばかりの国もないわけで。

次に、人によって善人悪人に分けるのではなく、同じ人が善人にも悪人にもなる・・・ということがあります。昔、手塚治虫の作品に「どろろ」という戦国時代を舞台にした妖怪マンガがありましたが、この中で一つ、印象に残るシーンがありました。主人公は妖怪を倒すべく闘いを挑むも、逆に妖怪が発する雷に弾き飛ばされ、道端で意識を失う。と、そこへ、一人の村人が通りかかり、「行き倒れか、若いのに気の毒になぁ」と言って手を合わせた後、「どれ、遺品は有難く、おらがもらっといてやるからな」と言い、身ぐるみを剥ごうとする。そこで、急に主人公が息を吹き返したことから、驚いた村人は、少しバツの悪そうな顔をしながらも、生きてるとわかった後は村に連れて行き親切に介抱する。

 死体の身ぐるみを剥ごうとしたのも、親切に介抱してくれたのも同じ人なんです。あるいは、他の人だったら、生きてるとわかったところで、どうせ動けないんだし、誰も見てないからといって、そのまま身ぐるみを剥ぐかもしれないし、場合よってはいっそ殺してしまったかもしれません。それをしなかったということは、この村人は基本的に善人だったのでしょう。が、それでも、もし、「借金の返済に追われている」、「子供が家で餓えている」など、ほんの少し、条件が違っていたら、この人も鬼になったように思えるんですよね。もちろん、これはフィクションでしょうが、全くの絵空事だとも言い切ることもできないように思えます。あるいは、手塚が生きた戦後日本の姿であったのでしょうか。

(小説家 池田平太郎)2019-06

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