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好漢惜しむらくは兵法を識らず

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2006-12-3平安時代中期、前九年の役に際し、苦心の末、勝利した名将源 義家が都に凱旋してきたとき、その奮戦を賞賛する声が鳴り響く中、一人の公家が、「好漢、惜しむらくは兵法を知らず。」

(いいやつだが、戦争の仕方を知らない。)と言い放ったという話があります。

現代で言うならば、サッカー日本代表の司令塔、中田ヒデに対し「いい奴だが、サッカーを知らない。」と言い放つようなものでしょう。

当然、周囲の誰もが皆、この公家を白眼視し、冷ややかな視線を浴びせかける中、当の義家一人が、敢えて教えを乞うたといい、このとき、教えを受けたものこそ兵法法典の最高傑作として名高い「孫子」であったといわれており、これにより義家は間もなく勃発した第二次戦役をわずか三年で片付けることが出来たと言います。

いわゆる、後三年の役です。

このエピソードは義家の度量を顕すものとして有名ですが、私が言いたいのは、むしろ、「自分では出来もしないくせに・・・」という、世間というものの空気です。

理論と実践とは、一対のものであり、「実践無き理論は空論に終わり、理論無き実践は悲劇に暮れる。」と思います。

あるいは、このとき、無類の実践者義家も自分の中では、何か限界を感じていたのかもしれません。

かつて、小泉総理がその手法を「丸投げ」と批判されました。

でも、人間、すべてのことが得意という人は一般的ではありませんし、すべての物を持って生まれてきたという人も、また極めて稀だと思います。

そんな天才の出現を待つことは、現実政治においては無責任極まりない話であり、だとすれば、自分にない能力、得意でない分野を、能力者、得意な人に任せると言うこともひとつの手法なのではないでしょうか?

丸投げというのが問題なのは、任せておいて責任を取らない(信用しない)ときと、決定権がどちらにあるのかあやふやな場合のみでしょう。

(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)

2006.12

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