おもしろコラム通信1月号 2012.1.01 No.093

 

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おもしろコラム通信発行月の前月によせられたコラムの内、採用されたものを絵入りで掲載しています。

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天然物信仰と食経験

 

 消費者の中には、必要以上に化学合成品を毛嫌いする方もおられます。そのような方は、天然の食材や抽出物は全て安全であると過信する一方、化学合成されたものについては過剰に危険視して徹底的に排除しようとする傾向があります。その様子はまるで宗教のようであり、「天然物

信仰」と揶揄されています。

 しかし、天然か合成かというだけで食品の安全性を判断するのは、余りにも短絡的です。食品の安全性を判断する上で最も重要なポイントとなるのは十分な食経験があるかないかということに尽きるのではないでしょうか。

 天然物にもたくさんの毒性物質があります。よく知られているところで言えば、フグ毒、トリカブト、ジャガイモの芽、青梅などがそうですが、数え上げればきりがありません。しかし、これらの毒性物質も長い食経験の中から、どのくらい食べれば、あるいはどの部分を食べれば毒なの

かが明らかにされ、上手く食生活に取り入れられて来ました。ふぐは肝臓や卵巣を食べない、トリカブトは弱毒化処理して漢方薬「附子(ブシ)」として利用、ジャガイモは芽を除く、青梅は梅干に加工して食べるなど、工夫すれば安全に食べることができます。

 このように毒のある食材を安全に食べることができるようになったのも長年に亘る食経験の積み重ねによるものです。一方、食経験の浅い食品ではアマメシバ事件のような食中毒事故も起りました。

 アマメシバ事件とは、東南アジアの熱帯雨林地帯に生えるトウダイグサ科常緑低木アマメシバによる食中毒事故です。2003年に40代の女性がアマメシバの粉末加工品を1日4回、計8gを130日間にわたって摂取した結果、閉塞性気管支炎を起こして入院しました。しかし、原産地の東南アジアでは、事故もなく普通に食べられていたようです。なぜ現地では事故がなかったのかというと、煮て食べられていたことと(煮ることによって毒性物質が揮発あるいは無毒化されるものと解釈されています)、恐らくは長年の食経験でどれくらい食べると危険なのかがわかっていたからだと考えられています。台湾では生のままジュースで飲んだことにより多数の患者と死者まで出すことになりました。日本では、粉末化して売られたために生や煮て食べるよりも過剰量を摂取し易い状況になってしまったことが原因のひとつであると考えられています。

 最近は南米ブームで南米の薬用植物などが健康食品としてよく日本に持ち込まれたりすることがあります。販売に先立って厚生労働省の食薬区分の審査を受けることになりますが、その際、判断材料の一つとして重要視されるのがやはり現地での食経験です。つまり、天然物だからという

だけでは全く安全性の根拠にはならず、実際に毒性があるのかないのかは、これまでに食べて何も健康被害がなかったのかということで判断するのがもっとも確かだということです。

 一方、化学合成品の安全性については、事前に動物試験などにより安全性が徹底的に検証されている分、食経験の浅い天然物よりもむしろ信頼できる面もあります。もちろん、動物と人間では同じ成分に対して反応性が異なる場合もあり、動物実験での結果がそのまま当てはまらない場合

もありますから注意は必要です。また、化学合成品には合理的に設計されているという利点もあります。例えば、合成抗菌剤の場合幅広い細菌に効果(「抗菌スペクトルが広い」といいます)があったり相対的に強い効果がありますが、天然抗菌剤の場合には抗菌スペクトルが狭かったり、

効果の弱いものがあったりするので、場合によっては十分な抗菌力が発揮されずに食中毒が発生するということにもなりかねません。

 天然だからということだけで不用意に飛びつかず、また化学合成だからというだけで毛嫌いすることもなく、アンテナを張り巡らし、有用なものは上手く利用して行きたいものだと思います。

(医学博士 食品保健指導士 中本屋 幸永/絵:吉田あゆみ)

 

 

 

 

小寒からの養生法

 

 あらためて、新年おめでとうございます。今年も一年、無病息災でありますように!!

 さて皆様お正月はいかがお過ごしでしたか? いつもは養生している方でも、お正月はついつい食べ過ぎて、体重も少し増えたのでは?

 私は、500ccのお弁当箱を用意して、お節もそこへ取り分けて、それ以上は食べな いように工夫していました。お弁当箱の半分が玄米ご飯、残りの半分の内の3分の2が野菜類、3分の1がお肉や魚や豆類と決めて取り分けました。(この詰め方を守ると500ccでほぼ500キロカロリ ーなんですヨ♪)

 お寿司の時も、すき焼きの時も、お弁当箱に取り分けていただきましたので、3が日で600グラムの体重増加にとどまり、2日で元のレベルに戻りました。

 お肉やお魚などの動物性タンパク質を摂りすぎた方、揚げ物などを多食してしまった方は、今が解毒のチャンスです。

 切り干し大根と干し椎茸のスープをいただいて、半身浴しましょう。

  作り方は簡単♪

切り干し大根3:干し椎茸1の割合で併せた量の4倍の水を入れ20分ほどコトコトと煎じます。この煎じ汁をお湯のみ1杯飲んで、半身浴しましょう。このスープの成分は油の代謝を高めて排泄してくれる他、水銀や鉛などの有害金属も体外に排泄します。

 腸内免疫を整える働きもあり、消化器系のガンや消化器に炎症がある方にお勧めです。 勿論、ダイエット効果もバッチリ!

しっかりと解毒をしつつ、体を補ってゆきましょうね。

(薬剤師、薬食同源アドバイザー 高田理恵/絵:吉田あゆみ)

 

 

敗北を免れる妙法

 

 良寬という人の名言に、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これが災難をのがるる妙法にて候」というのがあります。この点は、国家においても、同じ事が言えるのではないでしょうか?

 昨今の日本外交の閉塞感に伴い、感情論ばかりが先走る国内世論・・。これらの人たちは、論拠の是非以前に、対中・対米などのすべての関係でもしやするとすべてに勝とうと思っているのではないでしょうか?すべてに勝つなどというのは、日本のような小国にとって、普通に考えれば出来得る話はないのですが、そう言うと大体、返ってくるのは、「アジア諸国との連携を深めて中国を牽制すべきだ」、「EUと結んで、アメリカに対抗するべきだ・・。」などというような安直な意見です。

 日清戦争後の三国干渉の際も、ときの明治政府の選択肢としては①拒否

②列強のバランスオブパワーをうまく利用して回避 ③受諾・・・の三つがあったと言われていますが、この中で、もっとも厄介なのが②だと思います。

②は、一見、良さ気に見えますが、国家間の利害というものは、確かに、自国の利益の為に第三国を排除してくれることもありますが逆に、「強きを助け、弱きをくじくことで利を得る」場合もあり、また、仮に排除してくれたとしても、その国も別にボランティアで排除してくれたわけではないのですから、その国が送り狼になってしまう・・・ということも無いわけではなく、実際に、そうなってしまったケースも決して少なくはなかったようです。

 無論、ナポレオン戦争後の「会議は踊る」で有名なタレーランの例もないわけではありませんが、これは、極めて苦肉の策的なイレギュラーなケースであり、あまり、国家指導者が取るべき対応としては現実的だとは言えないでしょう。(そもそも、日本は先の大戦に負けたときから、アメリカの軛の下に置かれているわけで、それから抜け出したいのなら、もう一度、戦争してアメリカに勝つか、アメリカの力が弱まるのを待つしかなくだとすれば、嫌な目にあわされようが、信長に我が子の首を差し出した家康よろしく、とにかく、我慢するしかないように思います。)

 そして、この点で、欧米列強の侵略に対して、独立を守ったタイの対応と並んで、好事例のひとつとして挙げられるのが、第二次大戦中のフィンランドの指導者、マンネルハイム元帥の「勇気ある妥協」です。

以下、我が敬愛する大橋武夫氏の著書「ピンチはチャンス」から一部、抜粋しますと、

<1939年9月1日、第二次世界大戦勃発とともに、ソ連はフィンランドに対し以下の条件を強硬に要求してきた。

①カレリア地峡の国境より40kmほどの部分の領土割譲。

②フィンランド湾内の四島の譲渡。

③ベツモア地区内の漁夫半島の譲渡。

④ヘルシンキ西方120キロのハンコウ湾にソ連海軍基地設置。

これに対し、当時、フィンランド軍を指揮していたマンネルハイム元帥は「承知せよ」と進言したが、政府はこれを拒否。そのため同年11月30日、ソ連は50万の大兵をあげて、フィンランドに侵攻してきた。フィンランド軍13万は、マンネルハイムの指揮のもとに、雪と複雑な地形を利用して善戦し、ソ連軍に20万もの損害を与えて大いに苦しめたが、頼みにしたスウェーデンの援助もなく、国際連盟の仲裁も実効がなくて、漸次苦境に陥り、衆寡敵せず、翌年2月、マンネルハイムの切なる進言を納れて、ついに無条件降伏した。このときの、ソ連側の和平条件は、

①カレリア地峡の割譲。

②ラドガ湖北岸地帯の割譲。

③ペツアモ地方の割譲。

④ハンコウ半島の譲渡。

という、当時のフィンランド大統領が発狂したほどの苛酷な条件を押しつけられた。結局は、無駄な血を流して、和平条件を厳しくしただけ・・・という結果に終わったわけで、開戦前に、マンネルハイムの進言に従うべきだったのである。

1941年6月22日、今度は独ソ開戦となるや、フィンランドは進攻してきたドイツ軍とともにソ連を攻撃することになり、フィンランド軍は8月末には1940年に失った領土を回復。マンネルハイムは将来のことを考え、「ここで停止する」と強硬に主張したが、ドイツ軍はこれを許さず、フィンランド軍は東カレリアを攻略してムルヤンスク~レニングラード鉄道に迫るという有利な態勢となった。

1944年1月、ドイツ敗退に伴いソ連軍は逆襲に転じ、6月、カレリア地峡の国境を突破したため、フィンランド軍は苦戦に陥り、8月1日、リーティ大統領は辞任し、後を受けたマンネルハイムは9月14日、ソ連と停戦協定を結んだ。

主なる条件は、

①ポッカラ地区(ヘルシンキ西南万)地区を50年間ソ連に租借させる。

②オーランド諸島(フィンランド湾出口)を非武装化する。

③ペツモア地区をソ連に割譲する。

④3億ドルの賠償金を6年以内に支払う。

⑤1940年の国境を認める。

9月19日、フィンランド国会は200人中108人の賛成をもって、涙をのんでこの降伏条件を受諾し、マンネルハイムは「神よフィンランドを救い給え」の末文で終る停戦命令を発した。フィンランドは勝てなかった。しかしマンネルハイムの「善戦をバックとする勇気ある妥協」によって、ソ連軍による軍事占領を辛くも避け、ともかく息の根をとめられることだけは免れた。小国のとるべき国家戦略として学ぶべきものが多い。>

 マンネルハイム元帥は、出来ないことをやらずに、出来ることの中で精一杯のことをやったと言えるのではないでしょうか。

 「天皇の世紀」というドラマの中で、薩英戦争後の御前会議において、強硬派の面々は、敗戦を認めることについて、「されば、薩摩の面目は如何する!薩摩の威信は地に落ちるぞ!」と迫る場面がありました。これに対しての、劇中での大久保利通の言葉こそが、すべてを総括しているように思えます。

「威信が地に落ちても良かとやごわせんか。最後に勝てば良かとやごわせんか・・・」これこそが、「敗北を免れる妙法にて候」ではないでしょうか、御同輩。

(小説家 池田平太郎/絵:吉田あゆみ)

                        

 

 

 

 

縁起のいい冬野菜「芽キャベツ」

 

 日本ではどちらかといえば新しい野菜で、それほどポピュラーではない芽キャベツ。ベルギーの首都ブリュッセル近郊で原産され、英語ではブラッセルスプラウトと呼ばれています。もちろんブリュッセルの市場では、旬の秋から冬にかけてよく見かけられます。

 ビタミンCが普通のキャベツやレモンよりも豊富で、風邪予防にも美肌にも効くことから、ヨーロッパの女性には人気のある芽キャベツ。しかし、小さくてころんとした丸い形は子供たちにもウケるのですが、独特の苦みが大不評。口に入れるとすごく嫌な顔してベーっと出しちゃいます。

 そこで、ヨーロッパのママたちは知恵を絞って、芽キャベツと子供の好きなパスタを合わせたレシピを続々と開発。さらに、この芽キャベツは、オリーブオイルやベーコンといったパスタに定番の脂質と調理すると、甘みを増して食べやすくなるのです。

簡単に作れて家族みんなが喜ぶ芽キャベツパスタのレシピを紹介します。

 ささっと熱湯にくぐらせた芽キャベツを半切りにして、みじん切りにしたエシャロット、短冊切りのベーコンと軽く炒めます。同時進行でパスタを茹で、おたま一杯のパスタの茹で汁を炒めた芽キャベツ等に加えて蒸し煮にするのがポイント。芽キャベツが好みの柔らかさになっ

たら塩こしょうで味を整え、茹で上がったパスタと混ぜて出来上がり。個人的に、芽キャベツの焼き具合をパスタ同様にアルデンテにするのが、歯触りも良くてお勧め。

他に、軽く炒めた芽キャベツをホワイトソースにからめて、チーズとパン粉を振りかけてグラタンにするのも美味。

西洋では「赤ちゃんはキャベツから生まれてくる」と言い伝えられているように、キャベツは子宝のシンボル。特に、芽キャベツはひとつの株から小さな実がいくつもなるように改良された子だくさんなキャベツで、多くの子宝に恵まれたい人にはより縁起のいい野菜と言えそう

です。旬の今、ぜひ家庭で食べたい野菜です。

(コラムニスト びねくにこ/絵:吉田あゆみ) 

 

 

 

 

門松と家康

 

 お正月の象徴とも言える門松。玄関先に飾って新年を迎えるのは日本の伝統文化です。まっすぐに伸びる竹と青々とした松下部に添えられた葉牡丹や赤い南天の実を見ると、新しい年が始まったのだと実感し、気持ちが引き締まります。

 門松を飾る意味は、新年が来たことを告げる年神様が天から降りてくる際の依代(よりしろ)、つまりは目印にするためだそうです。古くは平安時代から飾られました。当時の門松には竹は飾らず、松だけを飾りました。松は中国の唐の時代に長寿の木としてあがめられていたので、平安貴族が縁起をかつぎ、松の枝を持ち帰って自らの屋敷の門前に飾りました。だから「門松」と名付けられたのでしょう。竹が加わったのは室町時代に入ってから。 竹も長寿を意味するので、元日にふさわしいと好まれたようです。やがて、子孫繁栄を願う実の沢山なった南天も添えられ、現在の門松へと発展していきました。

 今や門松の中央になくてはならなくなった竹ですが、スパンと斜めに切られた「そぎ」と、節のところで真横に切った「寸胴(ずんどう)」の二種類があります。地方によってどちらが選ばれるのかが異なるようですが、「そぎ」のほうが圧倒的に多いそうです。

 では、なぜスパンと斜めに切られるようになったのでしょうか。これには面白い逸話があります。

 時は戦国時代。一五七三年のこと。現在の静岡県浜松市で大きな戦が起こりました。武田信玄と徳川家康が争った三方ヶ原の戦いです。この戦で家康は大敗しました。大勢の家来を亡くし、命からがら浜松城へ逃げ帰りました。悔しさが込み上げる家康は、竹を武田と見たてて、「次は必ず信玄を斬るぞ」と竹をスパンと斜めにそぎ落としました。そしてその竹を飾り戒めとしました。これが「そぎ」の始まりと言われているのです。

 白い息を吐きながら初詣に出掛ける途中、いくつもの門松に出会います。竹の形が斜めに切られた「そぎ」であったら、家康の逸話を思い出してください。そして、それを自分の戒めに置きかえて、「昨年上手くいかなかったことを今年は絶対に成し遂げてやるぞ」と、新年の誓いを立ててみてはいかがでしょうか。

(小説家 華山 姜純/絵:吉田あゆみ)

 

 

 

 

 

<編集後記>

・先月の投稿総数=11本

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CATEGORY=おもしろコラム

 

 

 

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