おもしろコラム通信5月号 2012.5.01 No.097

 

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フードファディズムに陥らないために

 フードファディズム(food faddism )という言葉をご存知でしょうか。フードは食品で、ファディズムは「流行傾れ(かぶれ)」という意味です。要は、健康法や健康食品を過大評価し、ある種の信仰のように過信してしまうことですが、流行に敏感な日本人という民族は、このフードファディズムに特に陥りやすい民族のようです。

 テレビで「納豆が○○にいい」、あるいは「バナナが△△にいい」と言われれば、翌日にはスーパーの店頭から納豆やバナナがたちまちなくなってしまうという状態がよくみかけられます。

 フードファディズムが蔓延する背景にはマスコミの視聴率偏重主義や商業主義が深く関わっています。放送中止に追い込まれたテレビ番組「あるある大事典」のように、センセーショナリズムを追及する余り、ついには捏造にまで手を染めてしまい、社会問題にまで発展するということがありました。

 フードファディズムに陥らないためにはメディアリテラシーを磨くことが重要であるといわれています。氾濫する情報の中から本物を見極める目「メディアリテラシー」を養うことができれば、偽ものを掴まされることも少なくなることでしょう。

 しかし、一方ではフードファディズムという言葉が逆に健康食品などへの過度のバッシングに使われているのではないかと感じることもあります。かなり昔の話ではありますが、「買ってはいけない」というタイトルの批判本が爆発的に売れ、有名メーカーの食品や医薬品など多岐にわたる商品を槍玉に挙げて徹底的に糾弾するというスタイルが脚光を浴びました。また、食品添加物=悪の前提で書かれた「食品の裏側-みんな大好きな食品添加物-」は、2006年の大ベストセラーになりました。しかし、幸いなことに「買ってはいけない」は、その内容が余りにも揚げ足取り的

で科学的な事実からは逸脱したものであったため、この批判本を批判する『「買ってはいけない

」は嘘である』や『「買ってはいけない」は買ってはいけない』などという本が続々と出版され

るという事態になりました。「食品の裏側」は、本の中では悪玉扱いしている食品添加物にどの

ような害があるのか一切ふれられていないという矛盾が批判を浴びています。せっかく画期的な

健康法や健康食品が発掘されても、フードファディズムの名の下に不当にバッシングされ、埋も

れてしまうこともあるのではないかと危惧します。

科学的な原理とか真理というのは、時代と共に発展し、以前は定説として信じられた学説が科学

の進歩によって塗り替えられ、180度変わるということはよくあることです。かつては胡散臭いと

敬遠されていたものが、その後の研究により科学的に証明されて日の目をみるということも多々

あります。いくらメディアリテラシーを磨いても、前提となる科学的根拠が誤っていては見破り

ようもありません。

(医学博士 食品保健指導士 中本屋幸永)

 

個人用の箸と茶碗を分ける食文化

 日本の食文化のおもしろいところとして、箸や茶碗といった食器類が家族でも全員個人用のものがあるというのがあります。

 あまりにもこれが常識になっているので「え?」と、思う人もいるかも知れませんが、欧米にせよ中国にせよ「これはおじいちゃんのお箸、これはお母さんのお箸、これはぼくのお箸」と、個人のお箸や茶碗が決まっているという文化は、まず日本以外ではないでしょう。せいぜい大人用と子ども用が別れている程度。

 アメリカやヨーロッパではナイフやフォークに対して「これはおじいちゃんのやつ。これはお母さんの」と、区別することはありませんし、お皿もしかり。

 作家である井沢元彦さんの『穢れと茶碗』(祥伝社)によると日本人はたとえ家族が使ったお箸や茶碗でも、自分以外の人が使ったものはどんなにきれいに洗っていたとしても“汚れている”と感じるそうなのです。しかもその食器は和食器に限られ、カレーライスに使うお皿やスプーンは洗ってさえいれば、何の抵抗もなく使えるのに……。

 井沢元彦さんはこれは一種の宗教なのではないかとおっしゃるのですが、わたしもそう思います。

 わたしたち日本人は箸を手にながら合掌し食事の前に「いただきます」と頭を下げます。欧米には食前に神に祈りを捧げることはありますが、「いただきます」に相当する言葉はありません。

 日本人は誰にいただきますといっているかというと、それはもちろん料理を作ってくれたお母さんや料理人、あるいはそのために働いてくれたお父さんや農家の人々、そして田畑や山や海にいる神々にお礼をいっているのです。

(食文化研究家 巨椋修<おぐらおさむ>)

 

5月のこよみ

 五月の二十四節季にはまず立夏(りっか)があります。初候「蛙始鳴 かわずなきはじめる 蛙が鳴き始める」次候「蚯蚓出 みみずいずる みみずが地上に這い出る」末候「竹笋生 たけのこしょうず 竹の子が生えてくる」。

 もう一つは小満(しょうまん)で、初候「蚕起食桑 かいこおきてくわをはむ 蚕が桑を食べ始める」次候「紅花栄 べにばなさかう 紅花が咲き誇る」末候「麦秋至 むぎのときいたる 麦秋となる」。

 五月五日ごろ、立夏のころは雑節でいう八十八夜のすぐあとです。今の暦に照らすなら、会社勤めをされている方がゴールデンウィークを利用して田植えをする、ようやく水の張られた田んぼでオタマジャクシが蛙になり鳴き始めて、夏の訪れを告げるといった風情でしょうか。

 歳時記では竹の子(筍)も夏の季語になっています。桑は春に美しく芽吹き始めるということでそれ自身では春の季語です。今では桑の葉も蚕も紅花も、滅多に見られませんが、桑を食べて成長した蚕が紡いだ生糸を紅花の赤で染めていた昔の暮らしぶりが目に浮かぶようです。

 そうして五月の末。五月の初めに植えられた稲が青々と大きくなってきたころ、逆に麦は黄金色に実り、収穫の時期を迎えるのですね。

「五月(さつき)晴れ」ということばがよく使われます。確かに五月は晴れておだやかな日が多い印象がありますが、元はこれは旧暦の五月のこと、つまり今で言う梅雨の合間の晴天を指すことばです。

 その一方で。日本の気象には「メイ・ストーム」という用語があります。ことばどおり、「五月の嵐」です。暦の上では夏を迎えても、季節はそんなに人間の思いのままに

は移ってはくれません。「五月晴れ」が続くと言って油断をしていたら、台風並みの暴風雨をともなって低気圧がやってくるのはよくあることです。

 また「五月の遅霜(おそじも)」というのもせっかく出た新芽を枯らしてしまう原因になります。

 五月はまだまだ寒暖が安定しない時期です。農作物には直接関わりのない方々も、交通機関への影響や健康管理には充分にお気を付け下さい! そうして何より、この月の

気温が、あとの季節の野菜の値段にも反映されてくることをくれぐれもお忘れなく!!

(気象予報士 チャーリー)

     

            

 

 

藤の歴史と魅力

 安藤・伊藤・遠藤・加藤・工藤・後藤・近藤・佐藤・斎藤・神藤・進藤・春藤・須藤・内藤・尾藤・武藤。これらの苗字で共通するものは何でしょう?

 答えは簡単。「藤」の文字です。そして、ここに書かれた苗字は十六藤と呼ばれています。当コラムをお読みになっている方の苗字は十六藤でいらっしゃいますか?

 十六藤の本家本元は大化の改新で有名な藤原鎌足です。鎌足の功績のお陰で藤原氏の権力がどんどん拡大し、摂政・関白に任ぜられる摂関家となりました。やがて藤原一族では分家に「藤原」の一文字の「藤」を与えて別の苗字を名乗らせるようになります。例えば左衛門尉という位だった藤原氏には左(佐)プラス藤で「佐藤」と加賀に住む藤原氏には「加藤」と、尾張に住む藤原氏には「尾藤」と名乗らせました。このように官職名の一部や地名に藤を合わせて新しい苗字を作り、「藤」を日本各地へ広めていったのです。現在でも多くの人が十六藤の苗字を名乗っていて、学校や職場やご近所に必ず一人はいます。もしかしたら藤原氏の野望は平成の今でも続いているのかもしれませんね。

 藤原氏の家紋には当然ながら藤の花が描かれています。藤はかなり古くから日本に自生していました。なんと古墳時代には、石棺を乗せた台車を藤のツルで編んだ縄で引っ張っていたのです。そうして運んでお墓の古墳を作っていました。今でも藤のツルは籠などの材料に使われていますが、そんなに丈夫だったなんて知らなかったですね。

 各地で開かれる藤まつり。紫色の小さな花がいくつも連なり、それが房となって長く垂れ下がる姿は美しく、そよそよと皐月の風に吹かれて甘い香りを漂わせ

ます。淡くはかなげに見える花ですが、実は長い歴史があり底力のある花なのです。藤の魅力に益々惹きこまれていきそうです。

 

(小説家 華山姜純)

 

 

 

 

 

 

簡単に始まってなかった武士の時代

 織田信長を特集した雑誌の中に、信長を評して「近代への扉をこじ開けた男」という紹介が為されていたことがありましたが、そこには続けて、「日本の歴史の中でも他にこういう人物を探すとすれば平 清盛くらいしかいない」ということが書いてありました。

その意味では、信長が近代なら、清盛は「中世への扉をこじ開けた男」と言えるのでしょうが、一方で、米タイム誌が「2000年までの千年紀(ミレニアム)に偉大な功績を残した人物」として採りあげた中で日本人で唯一、そこに載ったのが源 頼朝だった・・・という話があります。

 確かに、「革命」という物を単なる権力闘争ではなく、階層の流動化という意味での階級闘争と定義づけたなら、日本の歴史上では明治維新よりもむしろ鎌倉幕府開闢の方が適当だとさえ言えるわけで、その意味では頼朝が日本人で唯一、そこに載るのはそれほどおかしな話でもないでしょう。

 ただ、一口に、「明治維新まで700年間続いた武士の時代」などといいますが、それは頼朝が鎌倉の地に武士の政権を樹立した段階でいきなり確立したわけではなく、具体的には、頼朝の時点では源平合戦で勝利を収めたとはいえ、その勢威はかつての奥州藤原氏と同様に東国に割拠した地方政権の趣が強く、むしろ、頼朝の死後、権力を掌握した執権・北条義時によって承久の乱において朝廷方の討幕軍が逆に鎌倉方に撃破されたことの方が武士の全国支配という意味ではエポック・メイキング的な出来事だったように思えます。

 その意味では、後の戦国乱世が、信長・秀吉・家康という英傑三代によってようやく収斂していったように、武士の時代の始まりも清盛が切り開き、頼朝が基盤を作り、義時によって一応の確立を見た・・・というべきで、その意味では、武士の時代の始まりは清盛にこそ求められるのではないでしょうか。

ちなみに、その100年以上後に、再び朝廷権力の再復を目指した後醍醐天皇によって鎌倉幕府が倒れたことを思えば、朝廷の勢威がいかに根強かったかがわかるでしょうか。

もっとも、皮肉なことに、そのことが武士の時代の定着をいよいよ後押ししたと言え、即ち、後醍醐天皇を吉野に追い新たな権力者となった足利尊氏は、反対を押し切り、鎌倉ではなく京都に幕府を開きますが、このことにより武家政権という物はようやく全国区になり得たわけで、その後、その孫の三代将軍・足利義満の時代になり、朝廷は全国の荘園や公領からの税の徴収を自ら行えず、幕府に依存したことで、朝廷の弱体化は誰の目にも明らかになり、ここに名実ともに武士の時代が成った・・・と。

つまり、「ローマは一日にしてならず」と言いますが、清盛、頼朝の時代からここまで実に200年以上の歳月が流れていたわけで、そう考えれば、やはり、武士の時代の最初の扉を開けた・・・という点では清盛にこそ、高い評価を与えるべきだと思います。

(小説家 池田平太郎)

 

 

 

 

 

<編集後記>

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