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自分の好物は他人も好物!

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0708-03昭和29年、広岡達郎が、早稲田大学から巨人に入団したとき当時、巨人には、主力選手として「打撃の神様」と呼ばれた川上哲治がいました。
広岡と川上の確執は、改めて言うまでもなく野球ファンにはかなり有名な話ですが、特にその昭和29年という年はさしもの「神様」川上も衰えが見え始めた年で、実際、川上はこの4年後に引退し、対照的に広岡はこの年、新人王を取っています。
この年、不調に苦しんでいた川上が遠征先の旅館で、素振りを繰り返していたところへ広岡が軽い気持ちで顔を出し、「カワさんも、苦しんどるんじゃけのー。」と一言・・・。
川上は青ざめた形相で広岡を睨み付けたと言います。
なぜ、広岡はこんなことを言ったのか?
広岡曰く、「自分の兄と川上が同じ年だったから、兄貴のような気分で接してしまった」のだそうです。
が、「神様」川上にしてみれば、当然、アカの他人のイチ新人としか見てないわけですから、「生意気なやつ!」という印象を持っていたところへ、この事件です。
さらに当時、選手としては晩年だった川上は若い広岡の矢のような送球を捕れなかったそうで、ある時、広岡のショートバウンドの送球を川上がはじき、それで広岡にエラーが付いたところ、広岡は、以来、すべて、同じコースへ送球し、そのたびに、川上はポロポロとはじきまくり、川上は満場の失笑を買ったと言います。当然、川上が監督になると、広岡に対する露骨ないじめが始まり、広岡は引退に追い込まれます。
その後、評論家としてスタートした広岡が巨人のアメリカ・キャンプを取材に訪れたところ、川上は広岡に対して選手らに箝口令を布き一切の取材に応じさせなかったそうで、この仕打ちに、広岡はあまりの悔しさに独り、ホテルのベッドで男泣きに泣いたと言います。
その後、川上は巨人の監督として、9年連続日本一という前人未踏の遺業を成し遂げ、それと入れ替わるように、広岡は監督としてヤクルトを初優勝に導き、その後、西武を常勝チームへと導きます。これほどの二人でありながら、その確執の原因となったのが、広岡の「友達」のような勘違いだったのですから、まったく笑えない話です。
でも、これは、有り得ない話のようで、結構、ありがちな話なのです。
広岡という人間は、大先輩に対して平気でショートバウンドのボールを投げるような人間ですし、一方の川上もチームの打撃練習の時間を一人で使いきったとか、ゴルフで後の組がどれほど詰まっていようと、平気で自分のボールが見つかるまで探した・・・などという逸話がある人物で、言うならば、似たもの同士だったのでしょうが、そういう普通の尺度で測れる人間同士じゃなかったのですから、さもありなんと・・・。
このときの「神様」川上の心中は察するに余りあるものがあったのではないでしょうか。
(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)2007-08

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