UA-77435066-1

人に優しい、「土佐藩」

 | 

2010-05-06今年の大河ドラマ「龍馬伝」が、なかなか好評のようですね。私も「娯楽作品」としては毎週、楽しく見ています。
特に、武市半平太とその一派が、何かあるとすぐに目を吊り上げて「攘夷!」・・・と叫ぶシーンなどは、現代の、ネットなどで過激な意見を吐いている人たちと二重写しに見えます。(この手の輩が中途半端な理論武装を振りかざすところも、また、底の浅さが露呈したときのヒステリックな反応もまったく同じに見えます。)
もっとも、実際の武市がどの程度、本気で攘夷思想を推進する意思があったのかは別にして、彼には「攘夷」を唱えなければならない「事情」があったのは事実でしょう。
まず、土佐藩という藩は歴史的に関ヶ原の戦いでの勝者側である山内家武士団が進駐することによって始まった体制だけに、上士の下士に対する抑圧は他藩に比べても著しかったと言われており、また、一旦定着した支配体制が堅牢な物であればあるほど、下層に置かれた者がはい上がるのは、事実上、不可能に近く・・・。
となれば、その憤懣も一方ならぬものだったでしょうが、そんな時に、土佐藩の上部団体である徳川将軍家とは別系列になる天皇家が、将軍家とは違う意向を持っていることがわかったわけですから、これは抑圧されている側にとっては文字通り、千載一遇の好機だったでしょう。(そういう視点で見れば、楠木正成が哀しいまでに献身的に南朝方に尽くしたことも理解できるような気がします。)
また、上士と下士の間には厳格な一線があると言ったところで、上士の数だけでは限りがあり、一旦、有事の際には下士も動員しないことには絶対数が不足することは明らかなことから、下士と言えども「殿様(体制)を守る」という意味での「防衛」を唱えることは、ちょうど、今の中国やロシアなどに置ける「愛国心」のようなもので、官憲側も安易に取り締まれない・・・という面があったでしょう。
ただ、その土佐藩ですが、まったく奇妙な藩ですね。
それほどに下士を抑圧したくせに、坂本龍馬、武市半平太はおろか、彼らよりさらに一段下の出である岩崎弥太郎までも、しっかり江戸遊学を許している。
いくら有事の際には一翼を担う・・・と言ったところで、剣術修行なら金メダルを獲ってくる訳でも無し、藩内で十分であり、学問したところで幕僚に登用するわけではないわけで、被支配者階級が都会へ行くなど、百害あって一利なしで、よくぞ許したものだと思います。
本来、支配者階級にとって、被支配者層が余計な知恵を付けるのは迷惑至極な話であり、遊学どころか、外部情報からは一切の情報途絶状態に置いておくべきで、実際、彼ら下士が「攘夷」だの「天皇」だのと、余計な情報を知ったからこそ、下士の発言力拡大からやがては大量脱藩などという形に繋がってしまったわけで・・・。
この点、古代、大和朝廷などは朝鮮半島や中国大陸からの使節が到着すると、自国の民と親しく交わったりせぬよう厳重に隔離したと言いますし、鎖国を導入した江戸幕府にしても、国民が必要以上に清国人やオランダ人と交流を持つことに神経質なまでに制限を加えてます。
そう考えれば、土佐藩というのは随分と「人に優しい藩」だったんだな・・・と。
(文:小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)
2010.05

コメントを残す