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「情けが仇」の見本?

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2007-05-04「新平家物語」のDVDを見る機会がありました。
若き日の仲代達矢扮する平清盛の乾坤一擲の気迫と、斜陽化してからの、やることなすことすべてが裏目に出るという閉塞状態が強烈に焼き付いております。
「清盛は頼朝を助けたばかりに、頼朝は平家を滅ぼしてしまった」という、巷間、言われる「情けが仇」の見本のように言われることについてですが、私は清盛が源氏の幼子を助けたというのは、決して間違っていなかったと思います。
なぜなら、保元・平治の乱という熾烈な権力闘争の後、人々は新しく権力者になった平家という武力新興階級に対し、どのような人たちなのか不安があったはずで、それに対する不安感を払拭し、政権発足早々の人心掌握に意味があったと思うからです。
私が学生時代に愛読した本の著者である大橋武夫氏も「平家の滅亡の原因は、よく敵に情けを掛けたことのように言われるがこれは違う。平家の滅亡の大きな要素は清盛亡き後、平家の側に清盛に代わる柱石がいなかったことだ。その意味では、清盛の長男で、器量人、重盛の早逝が惜しまれる。その証拠に、現に平家を都から追ったのは頼朝でも義経でもなく、木曽義仲なのである。」と書いておられました。
たしかに義仲の将帥としての能力は非常に高く、大橋氏は「義経よりは上」とさえ言っておられたほどで、頼朝や義経、範頼ら義朝の子らがいなかったとしても、木曽義仲(それがだめだったとしてもあるいは他の勢力)によって、結局は滅んでいただろうと思います。
もっとも、ここまではいいとして、ここで私が疑問に思うのは、命を助けるのはともかく、なぜ伊豆になど流したのか?ということです。関東はもともと源氏の地盤であり、今は平家に靡いているとはいえ、湿った火薬庫に、火の気を投げ込むようなものではなかったでしょうか?私なら、頼朝は京に留め置きます。
さらにベストの選択は貴族制に代わる武家政権の樹立という源平共通の利害目的を掲げ、その上で、一門の娘をあてがい(義経らも仏門になど入れず)、平家一門(武家側と言いかえても)に取り込みます。
それができないのなら、やはり殺すべきで、それをやらないなら、源氏の基盤である東国ではなく、平家の基盤である西国へ流すべきだったと思います。
(小説家 池田平太郎絵:吉田たつちか)2007.05

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