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満点アタチュルク

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絵:そねたあゆみ

 私がムスタファ・ケマルという人の伝記をどういう経緯で読もうという気になったのかは覚えていない。ただ、その本は今でも手元にあるので引っ張り出してみたところ、j.ブノアメシャン 著、牟田口義郎 訳、「灰色の狼 ムスタファ・ケマル‐新生トルコの誕生」という本で、一九九〇年に改訂第一刷の日付があるから、おそらく、その前後に購入したのだろう。ただ、当時、これを読んでとても強い印象を受けたことは覚えている。

 トルコ建国の父、ケマル・アタチュルクは、元々、ムスタファという名前であり、ケマルとは幼年兵学校時代、数学のテストであまりに毎回、満点(ケマル)を取るのでそれが仇名となり、そのまま自分の名前にしたと言われている。つまり、満点アタチュルクという意味で在る。思えば、ナポレオンも幼少期には数学が得意であったというが、彼らのような、「人の上に立つ人」の場合、特徴としては二通りあるのだろう。数学的思考法に長じた者と文学的思考法に長じた者である。ケマルやナポレオンなどは明らかな前者の代表だろうが、後者の代表としては国語が得意だったという毛沢東が挙げられるだろう。両者の質の違いは、直線的と包括的、直感的と思索的、一方は中央突破、一方は包囲殲滅、あるいは西洋的と東洋的、軍人と政治家の違いと言い換えても良いのかもしれない。

 第一次世界大戦中の大正四年(一九一五年)、ガリポリ半島攻防戦で頭角を現したオスマン・トルコの軍人、ケマル大佐は、大戦後もそのまま祖国解放戦争の指導者となって戦い続け、国土を占拠したギリシア軍を撃退。列強の干渉も撥ね退け、さらに、事ここに至ってもなおも自らの保身のみを図ろうとする皇帝メフメト六世との暗闘にも勝利し、ついに、オスマン・トルコを廃して、現代のトルコ共和国を建国したことで「国父(アタチュルク)」の称号を受け、今日でも多くのトルコ人の尊敬を一身に浴びている。

 ちなみに、ガリポリでケマルが英・仏連合軍を撃退したことで、戦死したのが「原子番号」の概念を発見し、ノーベル賞を確実視されていた天才的物理学者、ヘンリー・G・J・モーズリーであり、失脚し、長い雌伏の時を余儀なくされたのがこの作戦の立案者であったウィンストン・チャーチルであり、そして、彼らに代わって歴史の表舞台に登場することになるのが「アラビアのロレンス」こと、トーマス・E・ロレンス大尉である・・・といった方がむしろ、この戦いの輪郭を思い浮かべやすいのかもしれない。

(小説家 池田平太郎)2018-07

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