この点で、誰だったか明治期の人の回想記において、「話し上手であるけれど、同時に、聞き上手・・・という人は、意外と少ない」というものがありました。
なるほど、「雄弁は銀、沈黙は金」と言いますが、確かに金銀併せ持っている人というのは、周囲を見回しても、そう多くはないようにも思います。(私の取引先にも、来訪してくるるのはいいけど、延々と話し続けて、著しく業務に支障が出る人がいますが、そういう人は、話すばかりで落ち着いて人の話を聞くことをしませんよね。)
その意味で、この明治人は、その、数少ない、「話し上手にして聞き上手」の両方を持った人の代表として、福澤諭吉を上げておりましたが、この、「金」と「銀」の兼ね合いこそ、現代の日本人に求められる物ではないでしょうか。
最近、よく、国際化時代に置いて、外国、特に、アメリカ人やラテン系の人などから、「日本人は自己主張がなさすぎる」というような指摘があります。
先日も、フランス在住経験がある、知り合いの女性と話していたところ、彼女が居たのは、フランスはフランスでも、南仏だったようで、向こうの人たちは、映画「トスカーナの休日」などでも見られるように、うかうかとは道も歩けないほどに「礼儀として口説いてくる」のだそうです。だから逆に、日本人男性と結婚して日本にきたフランス人の友人などは、まったく、声を掛けられないので、「私って、それほどに魅力がないのか」と落ち込んでしまう・・・のだとか。
でも、そんなこと言われたって、こちとらは、「雄弁は銀沈黙は金」とか、「武士は片頬三年」(武士は、三年に一度片頬をかすかに動かす程度の笑いで十分。)などという言葉にこそ価値を置いて来たわけで、それを「日本人はおとなしい」とか、「もっと、積極的に」などと言われても・・・。
それに、「本当にあなたたちの価値観で間違いないの?」って気もしないでもありません。実際、交渉ごとなどでは、話しすぎるのは相手につけ込まれる隙を与えるだけだし、中国の古典などには、「交渉の時には、表情を読まれないように目は薄開きで話すべし」などと述べられているくらいで、私に言わせれば、あのラテン系の無駄な明るさは、確かに、多民族社会では融和を促す面もあるのでしょうが、同時に、他民族につけ込まれる隙を与えていることにも繋がっているような気もします。
だからと言って、我々の日常で笑いがないわけではないのですが、彼らから見ると、「日本人は日常のジョークやユーモアには不慣れ」であり、欧米人から、「日本人のサラリーマンを月曜日の朝笑わせるには金曜日の夕方ジョークをいえばいい」などというブラック・ジョークを言われるのも、ちと、心外な気もします。
ガイジンの皆さん、もし、日本人の庶民の笑いを知りたければ、いつでも、私が一献、お相手仕りましょう。殆ど、何がおかしいのかわからないと思いますが・・・(笑)。
(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)2010-01