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「高松城の水攻め」にみる黒田官兵衛の心理作戦

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カラー1豊臣秀吉がまだ織田家の部将であった頃、「三木の干殺し、鳥取の飢殺し、高松城の水攻め」で中国地方を席巻したと言われてます。
特に有名なのが城の周囲に延々と土堤を築き、川の水を引き込んで水没させて落とした備中高松城ですが、私がかねてより疑問だったのが、なぜ、ここだけ水攻めだったのか・・・ということです。
もちろん、他の2つと違い、水を貯めやすい地形だったということはあるのでしょうが、でも、他の2つは普通に兵糧攻めで落ちてるわけですから水没させなくても落とせたんじゃないの?・・・と。
で、さらに疑問なのが、秀吉方は救援に来た毛利軍の猛将・吉川元春の軍と土堤との間にはわずかな部隊しか配置していないことで、これでは、毛利軍がその気になれば夜間にでも急襲をかけて土堤を破壊し、城を水没から救うことは出来たんじゃないの・・・と。
ここまで考えて、ハッとしました。
つまり、「ここがどういう場所か?」ではなく、「今がどういう時期か?」と。
戦闘は梅雨から初夏にかけて行われたそうですから、織田家と違い、兵農分離が進んでいない毛利兵は農繁期の出兵を嫌ったのではないか・・・と。
兵からすれば、「だったら、来年の年貢は負けてもらえるんですか?」と言ったとしても、言われた側は現代もそうであるように税収不足は困るわけで、「いや、それはそれで・・・」としか言えず、だったら「冗談じゃない」となった・・・と。
となれば、救援に来た毛利軍は実際には大した兵力を確保できておらず、さらに、いくら、「もうすぐ終わるから」と言ったところで、目の前でしっかり水に浸かっている城を見れば、長引くというのは明らかで、そうなると今いる兵を引き留めるのも難しくなっていたのではないか・・・と。
結果、少ない兵力で土堤に向かってて出動すれば、待ってましたとばかり、秀吉軍の主力部隊に捕捉され、全滅してしまう可能性があり、また、秀吉もそれを狙っていた・・・と。
そういう目で見れば、高松城は周辺の泥沼で防御するという「時代遅れの城」で秀吉軍なら水攻めでなくてもどうにでもなった・・・と。
つまりは、織田家の革新兵制「兵農分離」も含めた戦争形態の変化が勝利の背景にあったと言えるでしょうか。
ちなみに、この攻略法を献策したのは秀吉の参謀として頭角を現していた黒田官兵衛(如水)だったと言いますが、これは私もそう思います。
なぜなら、作戦計画という物には人それぞれの傾向というものがあるもので、官兵衛のそれは、後の小田原攻囲の時などでもそうですが、単に物理的に攻略を企図するのではなく、心理的効果を狙うというのが一つの特徴のように思えるからです。
つまり、水攻めは攻略の手段ではなく、敵兵に与える心理的効果を狙った象徴的な物だったと。
(小説家 池田平太郎 /絵:そねたあゆみ)2014-03

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