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宮崎四兄弟父母の教え

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14-06-3 先般、「孫文の子孫と宮崎滔天の子孫が会談」という記事を目にしたのですが、孫文を支援した日本人としては、最近では梅屋庄吉が有名ですよね。
当時、孫文の支援者として有名だったのは宮崎滔天を始め、頭山 満や平岡浩太郎といった人たちだと聞いております。
(先日、テレビで「天皇家の親戚で大正三美人の一人に謳われた柳原白蓮が人妻でありながら、若き東京帝大の学生と駆け落ちした・・・」という、当時の大スキャンダルについて採りあげた番組の中で「その帝大生が宮崎滔天の息子・龍介だった」という説明があったときに、ゲストは皆、「誰?」状態で、これを見た司会者が「お父さん(滔天)はちょっと前までは有名でしたよ」と述懐しておられました。)
その、宮崎滔天・・・ですが、実は私も、「孫文を支援した民権運動家」、「長兄は西南戦争で戦死」、「息子は筑豊の資産家、伊藤伝右衛門夫人・柳原白蓮と駆け落ちした」、「宮崎四兄弟と呼ばれ、特に早くに戦死した長兄を除く下三人は民権三兄弟と呼ばれた」・・・というくらいにしか知らないのですが、とにかく戦前は有名だったそうです。
ただ、今はおそらく、この名前を知る人は決して多くないと思いますので、簡単に触れておきますと、長兄が嘉永4年(1851年)生まれの宮崎八郎、次兄が慶応元年生まれの宮崎民蔵、三兄が慶応3年生まれの宮崎弥蔵、そして末弟が明治3年(1867年)生まれの宮崎寅蔵(滔天)なのですが、当然、私がこの兄弟の業績について何事か語れるわけもなく、申し上げたいのはその両親の教えについてです。
兄弟の父は長兵衛、母は佐喜と言い、(ちなみに、四人以外の男子は皆、早世したそうで、八郎が次男、寅蔵は八男だそうです。)宮崎家は肥後国玉名郡荒尾村(現熊本県荒尾市)の下級士族の出だったそうですが、両親は兄弟が幼い頃より、「男子が畳の上に死するは恥辱なり」と言い聞かせていたそうです。つまり、「男と生まれたからには平凡に死ぬな!」ということで、いかにも、明治という時代の雰囲気を感じさせる話ではありますが、(今の草食日本には当てはめる事自体、宜なる哉と・・・。)ただ、一方で、この点では思い起こすことがあります。
それは、中国の客家(はっか)というものの子供たちへの対処の仕方についてでして・・・。客家というのは簡単に言うと、昔の中国で戦乱を避けて中央から移り住んできた人たちのことで、鄧小平、李登輝などを輩出したことで知られます。
が、その多くは現地の人達との軋轢も有って少なからず迫害の歴史を経てきており、そのため、国家というものをまったく信用していないのだとか。
したがって、子どもが4人いたら、1人は中国に置き、残りはアメリカ、ヨーロッパ、日本などへ分散して住まわせる・・・と。
つまり、子どもが可愛いからといって、一族が一つ所に固まっていたら、戦争や天災などにあった場合、一族が一度に全滅するということになりかねないわけで、これはこれで、確かに、考えさせられる話ではあります。
もっとも、この一理ある話を宮崎兄弟の親にしたならば、一言、「だから何?」と言われたのかもしれませんが・・・。
(小説家 池田平太郎/そねたあゆみ)2014-06

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