最近、つくづく思うのですが、この10年ほどで、本当に人とのやりとりがメールばかりになってしまい、すっかり手紙を書かなくなっているんですよね。その結果、ふと気づいたら、手紙どころか、以前は書けていた漢字が結構、書けなくなってしまっているんですよ。考えてみれば、パソコンだと勝手に漢字に変換はしてくれは注釈も説明も出してくれるわで・・・。まあ、そんなことしてれば、書けなくなるのも当然といえば当然ですよね。
ただ、その一方でメールの利便性についてはもはや否定しようがないところで、特に、大企業などの組織が大きい所はもう、今では上司への報告などはもとより、社内報などもメールで配信されたりしていたりするんだろうと思いますが、私が言いたいのはそういうことではなく、使いようによってはこれまでにない革新的なツールになる・・・ということです。それ、すなわち、「メールというものは中間管理職を通さずに誰でもトップに直接意見が言える」ということですね。
この点で、かつて幕末の薩摩藩主にして、名君として知られる島津斉彬は、藩士全員から希望者には意見書を提出させ、お目見得以上では末端に近い身分だった西郷隆盛を抜擢したわけでしょうが、斉彬が、もしメールという手段を持っていれば、西郷の発掘ももっと容易だったでしょうし、あるいは複数の西郷を発掘できていたかもしれません。
現代でも、現場社員や、アルバイト・派遣社員の中にも、意外な人材がいるかもしれないわけですし、そう考えれば可能性を探るという意味でも、また、現場の活性化という点でも、現代の情報技術革新という物は何とも利用価値の高い物ではないでしょうか。
何より、上申書だとトップの元に来る前に都合の悪いことが書いてある物は削除されてしまうかもしれず、また、名前が出ることで具申者は重役に睨まれる可能性もあるわけですが、メールだと誰からどういう意見が来ているかは基本的にトップと具申者しかわからないわけです。
つまり、「意見があればメールでどんどん送ってこい。私のアドレスはこれだ!たとえどんな内容であっても個人を誹謗するものでない限り受け付けるし、秘密も守る!」と言っておけば、末端の社員が何を考えているかばかりか、社内世論の動向もわかるし、逆にトップイズムも直接聞かせて浸透させることもできるでしょう。もっとも、結局はどこの会社も人材の登用こそがカギだ!とか、わかったようなこと言ってるくせに、意外に自社の末端からは発掘しようとは思わないもののようで、その辺の偏見こそが問題なのでしょうが。(小説家 池田平太郎/絵:そねたあゆみ)2014-08