(絵:吉田たつちか)
渋沢栄一は27歳のとき、十五代将軍・徳川慶喜の弟・昭武に従い、パリ万博使節団の一員として渡欧しています。ただ、使節団などというものは、いつの時代も、とかく、「随員」とは言いながらも、下情に疎い人ばかりで構成されがちなもの。派遣する方も、彼らだけでは不安なことはよくわかっているから、「やっぱり、少しは世慣れた者がいないと」・・・ということで、外国人との折衝経験が豊富な栗本鋤雲や、揉め事の調停や会計面での目配りに秀でた渋沢栄一が登用されました。ただ、栄一抜擢の背景にはもう一つ、おそらく、慶喜その人の意向があったと思います。
当時、「君君足らずとも臣臣たれ」という言葉がありました。つまり、「殿様が殿様らしくなくとも、家臣は家臣らしく忠節を尽くせ」という意味で、そうなると、徳川家臣団からすれば、慶喜への不満を慶喜へ向ければ、「不忠者」、「謀反人」となる・・・。そこで、その矛先が向かったのが、「君側の奸」、つまり、「悪い取り巻き」で、そのため、慶喜の有能な家臣が、次々と味方であるはずの徳川方からのテロに遭って命を落としていました。
だから、慶喜は新参者ではあるが、並々ならぬ有能さを見せるこの若者を、「幕末の動乱で死なせるのは惜しい。遠ざけておこう」と思ったのではないかと。
結果、栄一は期待に応え、ヨーロッパでは至る所で使節団内の揉め事の調停に見事に手腕を発揮。さらに、先々に備え、利殖して資金を確保。特に、ヨーロッパ滞在中に明治維新を迎えたことは、宇宙ステーションに滞在しているうちに地球がなくなったようなもので、大変な事態です。もし、栄一がいなければ、使節団一行は流浪の集団と化し、外国の塵となったかもしれません。
栄一は帰国後、静岡に逼塞していた慶喜を訪ねた後、昭武との約束に従い、水戸に行こうとしますが、何だかだ言って行かせないので、「どういうつもりだ」とねじこんだら、「そなたが水戸へ行けば、水戸の連中の嫉妬心を引き起こして、結局はそなたの身に害を生ずる恐れもあるから行かせないように」という慶喜の配慮だったと言われたと。栄一は改めて、自らの短慮を恥じる一方で、人の気持ちなどわからないような貴公子慶喜の意外な一面を見た気がしたでしょうか。栄一は生涯、慶喜を崇め、その名誉回復に奔走。さらに、莫大な金と時間をかけて、慶喜の事績を正確に後世に伝えたいとの思いから、「徳川慶喜公傳」を刊行しています。
慶喜は年齢的には、栄一の3歳年上でしかありませんが、両者の間にあったのは「友情」などではなく、文字通りの君臣関係。これが、本来あるべき、「御恩と奉公」の関係だったのでしょうね。
(小説家 池田平太郎)2023-01