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なぜか日本に育たなかった畜産文化

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(絵:吉田たつちか)

●日本で育たなかった畜産
 人類は約1万年前、農耕という技術を発明します。それとほぼ同時に羊や牛、豚などの動物を飼育するという畜産もはじめるようになりました。これを農業革命、または食糧生産革命といいます。
 日本でも狩猟採集中心の縄文時代から、やがて農業中心の弥生時代へと変化してきたといいます。ところが、日本において農業は盛んになりましたが、畜産はほとんどといってもいいくらい育たなかったのです。
●昔の日本人は肉を食べていた
 よく「昔の日本人は肉を食べなかった」と言われたりしますが、仏教が伝来するまで狩猟で得た獣肉は普通に食べていましたし、仏教の影響で天武4年(675年)に最初の「肉食禁止令」が出されるのですが、禁止された肉は牛、馬、猿、鶏、犬の5種類だけ。
それも農業をやっている4月から9月の間限定であったのです。
ここで賢明なみなさんならお気づきでしょう。「肉食禁止令」といいながら、鹿や猪、兎に野鳥といった一般に狩りの獲物となる動物たちを食べることは禁止されていないのです。
 牛、馬、猿、鶏、犬を食べることが禁止となった理由として、牛や馬は運搬や田畑を耕すのに役にたち、猿は人間と容姿が似ているため、鶏は朝を告げるのに役にたち、犬も狩猟や番犬に役にたつからというもの。 禁止された五種の動物も農閑期であれば食べてもいいということになっていました。
●なぜか日本人は動物を育てて食べることをしなかった
 もっとも日本人は牛や馬を食べる習慣はほとんどなく、元気な牛馬は食べるよりも運搬や耕作で働かせたほうがお得なので、明治維新が来るまで食べることはありませんでした。
 では豚や鶏はどうかというと、豚は縄文時代から弥生時代にかけて大陸から入ってきましたが、やがて鹿児島や沖縄以外では、あまり飼育することも食べることもなく、鶏も鳴き声を楽しむためや闘鶏のために飼っていましたが、食肉目的ではなく、卵も戦国時代に宣教師が南蛮菓子を作るために利用するようになってから、卵を食べるようになったようです。
●広島藩では豚が町中で放し飼いにされていた
 不思議なことに、日本人は猪や鹿を【薬と称して】食べても豚は食べず、鴨や雉は食べても鶏はあまり食べませんでした。当然、牛を放牧したり、養豚場を作るという文化もあまり発達しませんでした。
 おもしろい事例として、広島や岡山など瀬戸内海近辺では、町に豚を放し飼いにしていたという記録があります。 これは土地の人が食べるためではなく、何十年かに一度海を渡ってやってくる朝鮮通信使をもてなすために、町に放し飼いにしていたのです。
 江戸時代、日本には犬を綱などにつないで飼うという習慣は、富豪が大型の洋犬を飼う以外にあまりありませんでした。多くの場合、犬は町に放し飼いになっており、町の人たちが残飯などを与えて町全体で飼う「町の犬」だったのです。 それと同じように、広島の町中では豚が放し飼いにされ「町の豚」として飼われていたというのです。
●日本人のたんぱく源お米と大豆食品だった
 どうも江戸時代以前の日本人は、野生の動物は食べても家畜はあまり食べなかったようです。(まったく食べなかったわけではありません)
 ときどき「仏教や神道では獣肉は穢れとしていたから」という人もいますが、諏訪大社やある地域の神社では鹿肉などをお供えし神職や氏子が食べるところもあります。
 もっとも、日本人が獣肉を食べていたと言っても、日常的ではなくたまに薬代わり食べる程度でほんの少しだけ。実は魚や野菜もそれほど多くは食べませんでした。圧倒的にたくさん食べたのは主食であるお米や雑穀でした。たんぱく質もお米と大豆食品を中心に摂っていたのです。
●日本の畜産は明治になってから
 さて、なぜ日本には食用の家畜を育てて食べることが敬遠されたのかはハッキリとはわかりませんが「聖なる山、俗なる里」のような思想があったの「かも?」知れません。
 いまでも山に住むリスは可愛く、同じような種類のネズミは穢れているとか、コオロキは可愛いけど、家に住むゴキブリはおぞましいというような感覚があります。 また牛や馬といった家畜は家族同然に飼われていたので、食べたくないという感覚があったのかも知れません。 日本で家畜を食べるために飼うようになったのは、明治時代になってから。それまで家畜を食べるのはタブーに近かったようです。(巨椋修(おぐらおさむ):食文化研究家)

(巨椋修(おぐらおさむ):食文化研究家)24-07

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