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福岡城あれこれ

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(絵:吉田たつちか)

 福岡市中央区城内。字面からわかる通り、市の中心部にある福岡城の一角。いつだったか、名刺交換した人の住所がここになっていたので、「一等地にお住まいですね」と言ったら、「戦後の引揚者住宅です」と言われた。福岡市は佐世保港と並ぶ戦後の二大引き揚げ港の一つ、博多港を扼しており、終戦後、外地から命からがら引き揚げてきた引揚者と、戦災で焼け出された市内被災者のために、旧陸軍用地・練兵場跡の国有地に集団住宅を建てた。昭和の頃までは、密集家屋地だったような記憶があるが、戦後80年を経た今は随分と減った。
 その福岡城だが、築城者は豊臣秀吉の名参謀・黒田如水(官兵衛)とその子・長政。如水は隠居の身であったが、加藤清正、藤堂高虎と並ぶ築城の名手としても知られていたことから、福岡城築城にもかなり口を出したようで、長政は築城中、家臣に宛て、「如水様が何と言われようと、この長政が当主なのだから私の言う通りにせよ」と書いている。何やら、二世帯住宅建設での父子の意見対立と、板挟みとなった工務店の苦衷を見るような。
 竣工後、加藤清正が見学に来て、「これは凄い城だ」と唸ったというが、昭和51年、経営難のプロ野球、太平洋クラブライオンズ球団が、話題作りのため、自衛隊に頼んで福岡城の堀に堆積した汚泥をさらおうとしたところ、事前調査で、下に鋭く尖った石が複雑に組みこまれていることが判明。隊員が怪我をするという理由で、自衛隊も「遠慮」したという。
ただ、黒田父子苦心の堅城も結局、黒田家統治中は敵に囲まれることはなく、大軍の攻囲を受けたのは黒田家が去って後。明治新政府への不満を持つ当時の国内最大級の民衆10万人が蜂起。筑前竹槍一揆である。一揆勢は福岡県庁などを焼き討ちし、城に迫ったが、如何せん、烏合の衆。士族の決死の斬り込みの前にあっけなく潰走した。
 なお、福岡藩は廃藩置県に先駆けて、「偽札」でお取り潰しになっており、その後しばらく、城は管理する者もなく、荒れ放題になっていたらしく、人が上がってきたら、天守台へと通じる門の向こうで痩せこけた武士が仰向けに寝て死んでいたとか。(我々は「福岡藩は徳川幕府に配慮して、天守閣は作らなかった」と習ったが、最近では当初の数十年だけ「あった」という説が強くなっているようである。)
 ちなみに、昭和33年、福岡城三の丸に基幹病院建設の申請があった際、福岡県文化財委員会は史跡を理由にこれを却下したが、国の文化財審議会は県の頭越しにこれを認可したことから、憤慨した県文化財委員は全員総辞職。敵を寄せ付けなかった城の築城350年目にしての「落城」と「討死」である。 

(小説家 池田平太郎)2026-02

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