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古代エジプトの今と昔

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(絵:吉田たつちか)

 古代エジプトが衰退へと向かっていた紀元前1110年。旧都テーベはナイル川を挟んで東岸と西岸、それぞれ別の市長が管轄する形で統治していた。両市長にはライバル意識があったようで、西岸管轄の王墓群で盗掘の横行を知った東市長は、これを宰相に告発、逮捕、訊問の結果、いくつかの墓が荒らされていることが判明した。ところが、西市長は自ら特別調査委員会を設置すると、一部の容疑者を処刑し、身の潔白を主張。同時に、西市長の庇護を受けていたと思しき盗掘の首魁らに罪は及ばなかった。
宰相は、これに憤慨した東市長に不適切発言があったとして、調査を続ける代りに裁判を中止。にわかに処刑されるべき容疑者たちは無罪釈放となり、代わって東市長は失脚した。当時、王朝は極度の財政難にあったことから、あるいは、事件の黒幕は宰相その人であったのかもしれない。(江戸南町奉行が北町奉行の不正を老中に告発したら、老中本人が黒幕だったみたいな)。
それから、3000年が経った1881年。同じくテーベ西岸王墓でカイロ博物館は大規模盗掘犯の一味を逮捕した。ところが、一味の中には、イギリス、ベルギー、ロシア3国の領事代理もおり、博物館側は、州総督から調査開始の許可を得た上で、有力者や市長にも訴えたが、それ以上の成果はなかった。まさに、「歴史は繰り返す」である。
結局、盗掘犯一味に仲間割れが起こり、調査官らは盗掘墓の特定に成功。そこで、40体の王のミイラの棺を発見する。だが、「世紀の大発見」の噂が広まると、お宝の想像を逞しくさせた付近の住民らがそわそわし始めた。もういつまでもここには置いておけない。48時間の不休の作業の末に、墓の中身をすべて船に積み込むと一路、カイロにむけて出帆した。
だが、王のミイラ通過の報は「不思議な魔法の電信」によって、すべての農民が知るところとなっており、船が通過すると、空に向けて猟銃を撃つ男たちや、顔や身体に泥や埃を塗りつけ、胸に砂をこすりつけ、哀悼の歌を歌う女たちの列が延々と船につきまとった。調査官は記す。「それは一篇の幻想曲であった。自分は正しいことをしているのか。あそこで哀しみの声をはりあげ、胸を叩いているあの人たちの眼から見れば、自分もまた三千年の間、墓を荒らしてきた盗人どもと同じなのではないか」と。
なお、「高貴な人が死ぬと、その家の婦人たちは頭や顔に泥を塗りつける。死者を残し、家を飛び出し、上衣をまくりあげて、市中を練り歩き、胸部を露わして自分で叩く。男たちも同様に上衣を締め上げて胸を叩く」とは紀元前5世紀のエジプトの記録である。古代エジプトは19世紀にはまだ生きていたのである。  
(小説家 池田平太郎)<池田平太郎の新著「女王陛下の十手持ち」amazonにて絶賛販売中!>

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