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兄には頭が上がらなかった孫文大砲

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(絵:吉田たつちか)

 「国父」の称号で知られる中国革命の父、孫文は父53歳、母38歳のときの子供。したがって、上には12歳離れた兄がいるのだが、この兄がなかなかの傑物で、17歳で移民としてハワイに渡ると刻苦勉励、たちまちのうちに巨万の富を築いた。1878年、孫文は母とともに12歳でこの兄を頼り、ハワイに渡る。ハワイでは、兄の援助の下、同地の学校に学ぶも、やがて、キリスト教に傾倒。母や兄はこれを嫌い、キリスト教から遠ざけんとしたところ、孫文はこれに反発、ホノルルの波止場から香港行きの汽船に乗り込もうとするところを、駆けつけた兄に捕まる。「旅費は払わんぞ!」と脅す兄に、聞き入れようとしない頑固者の弟。孫文はついに旧知の米人宣教師に頼みこみ、旅費300ドルをもらって強行帰国してしまう。
 帰国した孫文を待っていたものは、その兄からの巨額の学資金の送金。さすがにこれには、孫文も相当感じ入るところがあったようで、この兄に対しては終生、変わらぬ感謝と尊敬の念を抱いていたとか。1910年、中国革命同盟会の領袖としてハワイから兄とともに来日した44歳の孫文は、日頃から、誰の前でも自分の主義主張をまくしたてるその姿から、大ぼら吹きの「孫大砲」とあだなされていたにもかかわらず、兄から何か小言をいわれると、たちまちおとなしくなったそうで、日本側の関係者は皆、奇異な感じがしたとか。
 ちなみに、孫文はロンドンでもこの「大砲」をぶっ放さんとしたのだろう、敵地である清国公使館にノコノコと出かけ、あっさり監禁されてしまう。危ういところで難を逃れるが、まさしく、黒田如水の有岡城幽閉と同種の無神経さ。自ら招いた災難でもあるが、さすが英傑は転んでもただは起きない。孫文はこのときの一部始終を『倫敦被難記』として発表し、一躍、革命家として世界にその名を知られるようになる。
 なお、孫文は中国や台湾では一般に孫中山(そん・ちゅうざん)と呼ばれ、孫中山記念堂は元より、至る所に、中山公園、中山路などがあり、さらには、中山大学から中山市に南極大陸の中山基地まで。この中山だが、私も上海で、「なかやま公園?」と思ったことがあるが、あながち間違いでもなかったようで、孫文の日本亡命中、投宿した宿で、宿の者が宿帳をもってきたのに同行の日本人・平山周はハタと当惑。万事、無頓着な孫文は、「君と同じ平山でいい」と言ったが、平山は「それも変だろう」ということで、結局、考えた末、来る途中に前を通った中山侯爵邸を思い出し、平山が「中山」と書くと、孫文が続けて「樵(きこり)」とつけ加えた。孫文はこの中山樵を気に入り、日本滞在中はこれで通していたとか。 

(小説家 池田平太郎)2025-09

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