以前、人気お笑い芸人のぐっつぁんこと、山口智充さんが、素人時代に、スナックのカラオケで北島三郎さんの物まねをして歌ったら、向こうに座っていた強面のおじさんたちから大喝采の挙句、ボトルが差し入れられてきた・・・という話をしておられました。
この話を聞いて、なるほど、一芸で飯を食っていくということが出来る人というのは、こういう人のことを言うんだろうな・・・と。そして、ここにこそ、興業というものの本来的な姿、つまり、本質があるような気がします。
世の中、単に歌や物まねが上手い人なら掃いて捨てるほどいますよ。100点満点の100点かもしれない・・。
しかし、それで飯が食っていける人というのは、それ以上の何か・・・、魚が、海底から、一気に浮き上がって海面すれすれまで行けるのを100点だとしたら一瞬でも海面を突き抜けて、水がない世界でひるがえって見せることができるような・・・、つまり、120点がとれる者こそが一芸で飯を食って行くというこを為し得る者だと思うのです。
そういう人の芸域に、初めて、人は金を払って見に来る・・・と。
そのことを、上述の北島三郎さんは、「僕の兄弟は皆、歌がうまい。しかし、歌で飯が食えるのは、僕だけ」と言ったといいます。
そのことは、同様に、明石家さんまさんは、芸人辞めて東京の喫茶店でアルバイトをしていた頃、「おもろい兄ちゃんがおる!」ということでさんまさん目当てに来る客が激増し、店の売り上げが飛躍的に伸び、店のマスターから給料を上げるから残って欲しいと言われたといいますし、島田紳助さんは、芸人辞めてキャバレーの支配人をしていた時代には、若くして、名支配人の呼び声高く、かなりの収入を得ていたといいます。
まあ、こういう、違う仕事に就いていても、それなり・・・、いや、それ以上に光ることが出来る人こそが、一芸で飯を食って行くことが出来る人なのでしょう。
その意味では、敬愛する大橋武夫氏の著書に描いてあったことですが、旧帝国陸軍のバイブル、「統帥綱領要項」には、「まず計算し、しかる後にこれを超越せよ」という言葉がありますが、まさにこれではないかと。
計算するまでなら、参謀というのは、大体、秀才と名が付く人ばかりですから、出来不出来はあったとしても、それなりに出来る・・・と。
しかし、計算して出てきた物を、ただ、実行に移すだけなら司令官はいらないわけで、司令官は、その計算値をさらに超越した答えを出さなければならない・・・というような意味ですね。
まあ、そこで求められるのが、経験であり、それに裏打ちされた直感力だったりするわけでしょうが、しかし、いくら頭が良くても、やはり、参謀止まりの器の人というのはいるわけです。
(小説家 池田平太郎/絵:吉田あゆみ) 2012-08