「世間の、意外に利口なことにハッとするときがある」
・・・これは、私が師と仰ぐ兵法研究家・大橋武夫さんの言葉です。
抹香臭い説教と違い、生で会社経営されてこられた方の言葉だけに、大変、身近に感じ、まさに、生きた言葉だと思います。
この言葉のとおり、世間とは、それほど、愚かなものでもないと思います。
黒澤明が、その名作「隠し砦の三悪人」の中で描いた百姓二人は、臆病で強欲などうしようもない連中でしたが、三船敏郎演ずる侍大将の目を盗んで、ちゃっかりと姫の居場所を密告しに走ったところなどは、まさしく、その好例だったでしょうか。
マキャベリも言っています。
「大衆は抽象的なことにはまるで判断能力を有さないが、具体的なことになると、かなり的確な判断を下す」と。
ただ、私に言わせると、その利口な世間というやつは、同時に、必ずしも人格者ではないようです。
考えてみれば、人間の集まりから出来ているのが世間ですから極めて人間臭いものをもっているのも当然なのでしょう。
(もっとも、当然ながら世間という奴は、いろんな要素をもっている以上、人間と一緒で、「いい奴」「悪い奴」で、簡単に線分けしてしまえるものではないようですが・・・。)
世間というやつは、人と同じように、驚き、怒り、そして、嫉妬する・・・。
この点で、思い起こすのが、フランス革命における革命指導者の一人で「ジロンド派の女王」と呼ばれたロラン夫人です。
幼い頃から美貌と才知に恵まれていたこの女性は、長じてよりはルソーの思想をよく理解し、熱烈な民主主義者となり、やがては議会の多数を占めるジロンド派の黒幕的存在として「ジロンド派の女王」と呼ばれるまでになります。
これにより、フランス革命勃発時には、その理論的指導者の一人として、これに参画しますが、やがて、革命の「熱気」は「狂気」の様相を帯び始め、夫人の「理想と理論」は「権力闘争」へと変質してしまい、ついには、夫人自身も「フランス人に自由を与えるのは早すぎた」という言葉と共に獄中の人となります。
そして、やがて、ギロチン台に上ることになった夫人は、今度は、「自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか」との言葉を遺して刑場の露と消えるわけですが、これこそ、革命という物の持つ特質の一端がわかるように思います。
つまり、革命という物は、往々にして、「自ら発する欲望という名の熱により、当初の理想や理念などとはほど遠い物に変質してしまうことがある」ということです。
(革命が熱を帯びるのは、革命という物の本質が持たざる者が持つ者に取って代わるという階級闘争である以上、やむを得ない話であると思います。
即ち、「持たざる者」とは「持ったことがない者」であるとも言え、一旦、そういう人が持てる立場となったときには、「この機会に出来るだけ・・・」と考えがちなことから、その欲望は際限なく膨張してしまうものだからです。)
古くは、秦の始皇帝以後の項羽と劉邦の覇権戦争・・・、近いところでは、日本の明治維新、また、ロシア革命におけるスターリン体制確立や毛沢東の文化大革命なども、この範疇に入るでしょうか。
(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)2008-04