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御舘の乱、判断の是非

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09-04-3 NHK大河ドラマは上杉景勝の股肱の臣・直江兼続で新潟県は盛り上がってたようです。
その直江兼続ですが、最近の大河ドラマは、必要以上に「良い人」なってしまう傾向があるようで、彼が兜の前立にあしらったと言われる「愛」という字についても、現代人はすぐに愛情の「愛」を連想しがちですが、実際には、上杉謙信が「毘沙門天」の「毘」を旗印にしていたように、こちらも信仰対象である「愛染明王」か「愛宕権現」の「愛」だったようです。
ただ、彼の智謀が主君上杉景勝を導いたということは否定しようがない事実なのでしょうが、私にはその中でどうしても首を傾げる判断があります。
まず、武田信玄と上杉謙信、好敵手として史上名高いこの二人は、同時に、この時代の有力武将には珍しく最後まで家督を譲ろうとはせず、現職のまま没した人物です。
ただ、信玄とは対照的に、謙信は生涯妻帯もしなかったことから、当然のように実子がなく、養子として実甥の景勝を迎えていたものの北条氏康の八男を人質に迎えた際に、これにかつての自分の名乗りである景虎という名を与え、人質としてではなく、養子としてしまったことから話がややこしくなっていきます。
景虎にすれば感無量のものがあったでしょうが、すでに後継予定者となっていた景勝からしてみたら、「叔父さんは何てことをするんだ!」と思ったでしょう。
その結果、謙信が没した直後から当然のように「御館の乱」と呼ばれる養子間の内乱が勃発しますが、ただ、この時点で兼続は数えの19歳。微妙なところですが、2年後にはもう重用されていたということを考えれば、このときも、景勝から何らかの諮問はあったと考えて良いのではないでしょうか。
その上で、私が首を傾げるのは、景勝が上杉家の家督を相続することを優先し、大敵、織田信長の存在を後回しにしたことです。
当然、機を見るに敏な信長がこの好機を見逃すはずもなく、内乱が長期化する間に領土は瞬く間に侵食され、終結したときには、わずかに一国半となってしまい、その結果、武田家が滅びると、織田の鋭鋒は勢いそのままに、四方八方から上杉領へなだれ込み、上杉家は滅亡の瀬戸際に立たされます。
このとき、上杉家が滅亡しなかったのは、信長が本能寺の変にて横死したからに過ぎず、単に運が良かったというに過ぎません。
そこら辺を考えれば、両者は内紛など引き起こすことなく、理性を持って、一致協力して大敵信長に当たるべきではなかったでしょうか。
景虎が家督を継ぐと、北条家の傘下に組み込まれてしまうという危機感があったのかもしれませんが、景虎からすれば、自分を捨て殺し同然に人質に出した実家に対して、安穏と実家の下風に置かれることを良しとしたとは思えず、できるだけ実家の援助は受けたくなかったというのが本音だったでしょう。
であれば、二人に妥協点はあったように思えますし、何より本来、強敵に対しては呉越同舟で一致結束しやすいものなんですけどね。
(小説家 池田平太郎/絵:吉田たつちか)2009-04

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