12月9日は明治の文豪・夏目漱石が没した日、この日を「漱石忌」といって現代俳句の世界では12月に用いられる季語ともなっています。
漱石自身も、大学の同窓で同じく近代文学の発展に多大な功績を残した明治を代表する文学者で俳人・歌人であった正岡子規との出会いにより俳句を学び、自らの俳号を愚陀仏(ぐだぶつ)としていました。
漱石の出生は数代前から続く名主の家でありましたが、事情により生後すぐに里子に出されたり、一度生家へ戻った後も父の友人であった夫婦の元へ養子に出されるなど、その生い立ちは大変複雑なものであったようです。
養父母の離婚により再び夏目家に戻ったのちも実父と養父の2人の父の対立により夏目姓への帰籍は成人以降まで遅れ、復籍した後も養父からの金の無心が止まなかったなど不穏な生活が続いたといわれています。
漱石は母校である大学の講師や、後に代表作「坊ちゃん」の背景となる愛媛県・松山での中学教師などを経た後英国へ留学し、帰国後は新聞社へ入社しました。
その在職中に「我輩は猫である」を発表して脚光を浴びその後も次々と作品を世に出して文壇での地位を確固たるものとしていきますが、この頃職業作家になるよう薦めたのは、先述の漱石の同窓・正岡子規に師事していた高浜虚子であったと聞きます。
こうして文学者としては恵まれた境遇であった漱石ですが、私生活では精神の病や病没の原因ともなった胃病に長年苦しめられるなど安穏とは程遠い日々が続き、幼少期から続く様々の経緯を知ってから作品を読むと、随所にその苦悩やエピソードの片鱗を垣間見る事ができます。
1916年12月9日、持病であった胃潰瘍が悪化し「明暗」を執筆中に未完のまま49歳の若さで逝去。
そんな漱石が残した俳句に、
腸に春滴るや粥の味(はらわたにはるしたたるやかゆのあじ)
という一句があります。この句は春に詠まれたものでは無いそうですが、大病の後に粥を食べられるまでに回復した喜びを季語の「春」に込め、その嬉々とした雰囲気が伝わってくるような一句です。
千円札の肖像が漱石から野口英世に代わって久しくなりますが、それでも未だ時折手元に回ってくる漱石の憂いのある肖像を見る度、偉大なる文豪への尊敬の思いが蘇るのです。
(現庵/絵:吉田たつちか)
2006.12