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家康は黒田官兵衛を恐れたか?

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16-09-05 よく、徳川家康は黒田如水(官兵衛)を恐れた・・・ということが言われますが、果たしてそうなのでしょうか。まず、関ヶ原合戦の折、家康は58歳で如水は55歳。戦国を生きてきた同世代ではありますが、その経歴はまったく異なっています。家康は主家没落後、若くして独立し、以後、独立独歩で苦労しながらも大国に成長させてきたのに対し、如水は主家倒産後、成長著しい織田家の傘下に入り、秀吉の幕僚として頭角を現したわけです。まあ、この辺は時期の違いということもあるのでしょうが、やはり、両者の性格の違いということもあったように思えます。
その上で、如水が天下を狙ったかというと、彼には天下を狙う上で致命的なまでに欠けている要素があります。それが「いつか見返してやる!」というもの。そう言うと、「低い身分から叩き上げた秀吉や人質生活からスタートした家康のような人はともかく、子供の頃から好き勝手やってきた信長には当てはまらないんじゃないか?」と思われる方もあるかもしれませんが、しかし、信長は確かに好き勝手やってきた反動で若い頃はなかなか真意が理解されず「うつけ」と呼ばれて蔑まれていました。
「今に見ていろよ」と思っても不思議はないでしょう。対して如水は父の代になって召し抱えられた新参ではあっても既に主家を背負って孤軍奮闘している状態。誰しも助けてもらう者を邪険には出来ないわけで、おまけに息子は図抜けて成績優秀とくればなおのこと。特に屈折した心理を持つこともなく育ったように思えます。
結果、秀吉没後の覇権争いが本格化した時点で徳川家は250万石であったのに対し黒田家はわずか12万石。家康が自前で大兵力を運用できるのに対し、如水はどこからか掻き集めてこなければならない。そのため、関ヶ原合戦時、挙兵するに際しては貯め
ておいた銭で傭兵を集めなければなりませんでした。そうなると、仮に家康と如水の兵力も力量も互角だったとしても兵員の質という点では著しく不利であることは否めません。その上さらに、黒田家のなけなしの主力部隊は一人息子の長政が率いて他ならぬ家康の下にあったことから、「父が独立しますから帰らせて下さい」で帰らせてくれるのか?という問題が発生するわけです。この辺を考えれば如水ほどの人がこういう夢物語を本気にするとは到底思えず、むしろ、如水の恐るべき点は関ヶ原合戦では終始一貫、しっかり籍は東軍(家康方)に置いていたこと。つまり、攻撃する相手はあくまで西軍(石田方)の大名のみ。これでは家康もケチのつけようが無かったでしょう。その意味では家康がもし、本当に恐れるとすれば、秀吉の遺児秀頼が出馬し、如水が任されて軍略を練るという場合のみだったかと。(小説家 池田平太郎)2016-09/絵:そねたあゆみ

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