ギリシアの歴史で、ちょっと驚いたことがあります。ローマが盛衰はあっても、基本的にずっとローマだったから、アテネも多少の盛衰はあっても、ずっとアテネだったんだろう・・・と思っていたら、さにあらずで、アテネは19世紀になって、古代ギリシア大好きのドイツ人がギリシア王に即位、「ギリシアの首都と言えばアテネでしょ」で首都にしたのだとか。この時点で、アテネの人口は寒村と言って良い1,000人程度だったと言いますから、コリントスやナフブリオの方が遥かな大都市でした。(事実、独立戦争後の最初の首都もナフブリオに置かれています。)これを、日本に例えて言うならば、維新後、明治新政府の首都を江戸や大坂ではなく、「日本の首都と言えば飛鳥でしょ」で飛鳥に遷都したようなものでしょうか。
どういうことかというと、アテネは古代の栄光に幕を閉じた後、ローマ帝国、東ローマ帝国の一部としての歴史を経て、1458年にオスマン帝国によって制圧されて以後は、衰退の一途をたどります。1827年に独立戦争の結果、オスマン帝国の支配からは脱却したものの、新たに成立したギリシア共和国は内部の紛争であえなく崩壊。混乱の中、列強の思惑で、イギリスでもフランスでもロシアでもないドイツのバイエルン王国の王子がギリシア国王に指名され、1832年、ギリシア国王オソン1世として即位、アテネを首都にした・・・というわけです。
思えば、古代ギリシアの時代なら、アテネ市の中心のアクロポリスの丘にパルテノン神殿が建つのは別に不思議なことではないのですが、現在のギリシアはギリシア正教の国。首都の中心に異教の神を祀るのは、決して、普通ではないんですね。これすなわち、アテネの中心にアクロポリスがあるのではなく、アクロポリスを中心にアテネの街が創られた・・・ということです。
現代、アテネを訪れる観光客は、街が遺跡に満ちていることから、古代から存在し続けていたように勘違いするそうですが、現在のアテネ市は、基本的にオソン1世が新たに建設(もしくは、発掘が進んだ)した「夢の跡」なんですね。
ちなみに、オソン1世は、アテネのライバルであったスパルタも復活させようとして、遺跡の上に新しい都市を建設させたそうで、現在のスパルタに行くと、中央広場にはレオニダス王の銅像が設置され、広い道路で区画された近代的な市街が広がっているそうですが、肝心の遺跡の発掘はあまり進んでいないとか。オソン1世は、結局、二度のクーデターの末に退位、故郷バイエルンへの亡命を余儀なくされますが、「王様の自己満足が招いた復活」だったとまでいうと、少し言いすぎでしょうか。
(小説家 池田平太郎)2024-11