古代日本にあって繁栄を極めた藤原氏ですが、それを象徴するのが、あの人もこの人も藤原で、やむなく、加賀守・藤原で加藤、武蔵守で武藤、尾張守で尾藤などと名乗らねばならなかったこと。つまり、「藤原藤原、いささか多うござんす」ですね。藤原氏の始祖は言うまでもなく、天智天皇の右腕として大化の改新を支えた中臣鎌足ですが、実は鎌足が「藤原」を名乗ったのは死の前日。天智天皇からの下賜だったそうですが、果たしてこのとき、鎌足に意識があったかどうか。ちなみに、「藤原」とは「藤の花が咲く原」という意味で、後には都の名前にまでなっていますから、天皇家においては「理想郷」のような意味があったのかも。
鎌足亡き後、跡を継いで、藤原氏隆盛に道を付けたのが次男の不比等。元々、鎌足には二男五女の七人の子がいたようですが、このうち、二人の息子については早い時期から天智天皇の御落胤という説が囁かれていたとか。もちろん、権威付けを狙った藤原氏側の創作の可能性は否定しませんが、ただ、このうち、長男は11歳で僧籍に入り、遣唐使船に乗って唐に留学しており、当時、遣唐使船は沈没、難破の可能性も高く、高位の家の長男が、しかも、僧となって行くというのはかなり不自然な出来事です。(不比等の息子も唐に渡っていますが行ったのは三男。)そう考えれば、元々、鎌足には息子はいなかったのかも。(娘婿ではだめだったのか?という気はしますが。断れなかったとか?)
長男は一応、無事、帰国しますが、ほどなく死去。そこで7歳の不比等が後継者となり、成人後は親の大名跡で一直線に・・・と考えそうなところですが、事はそう単純ではありませんでした。天智天皇が崩御すると、天皇家では、跡目をめぐって天智天皇の息子と弟の間で内乱(壬申の乱)が起こり、勝った弟(天武天皇)の時代となります。天皇が兄から弟に変わったわけですが、新しい天皇は、亡父が重きを為した天智朝を倒して実権を奪い取った天皇ですから、不比等14歳の立場は微妙です。不比等にとっては皇后が天智の娘だったことだけが救いで、事実、彼の出世が始まるのは、天武天皇崩御の後、皇后(持統天皇)の世となってからでした。
この不比等には四人の息子がおり、不比等死後、この四家を中心に激しい権力争いを繰り広げますが、まず、このうち、四男の家は元々パッとせず、また、長男、三男の家は謀反人を出したことなどもあって次第に凋落。結局、冬嗣、時平、道長、隆家から、藤原純友、藤原秀郷、藤原秀衡に紫式部まで、著名な藤原は、概ね次男・藤原房前の家系(北家)に連なる人たちと思って間違いないようです。
(小説家 池田平太郎)2025-02