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調整型のための大日本帝国憲法

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(絵:吉田たつちか)

 源頼朝死後、御家人同士の抗争の中で頼朝の子孫は絶え、代わって、頼朝の岳父・北条時政が御家人の中から台頭。「執権」として鎌倉幕府の事実上のトップとして君臨するようになる。その時政を追放した息子の義時が二代執権として基盤を固め、以後、北条執権体制が定着した・・・かのような観があるが、その実は、むしろ、義時の子の三代泰時の手腕によるところが大きい。
 父の死後、執権となった泰時は、父や祖父の時代の御家人同士の血で血を洗う権力闘争を継承しなかった。「御家人同士が共存できる体制」の構築に動いたのである。具体的には、その後の徳川幕府の「武家諸法度」にまで影響を与える武家法の元祖とも言うべき「御成敗式目」を制定。それに沿って、御家人同士のもめ事を執権が上手く裁いて行く体制をつくることで、北条政権を維持していく仕組みを作った。これが「北条執権体制」というものの実態であった。だがこれは、見方を変えれば、「三代泰時が優れた調整能力を発揮することで運営できる政治形態」であったとも言え、事実、泰時が死去し、後継者となった孫の四代経時も若くして世を去ると、たちまちのうちに執権派と将軍派の対立が生じ、五代時頼のクーデターを経て、ついには武力衝突へと発展。有力御家人・三浦氏が打倒される宝治合戦へと至っている。
 ところで、「大日本帝国憲法」というものも、伊藤のような調整型のリーダーには非常に使い勝手が良い制度、というよりむしろ、伊藤だからこそ使いこなせた制度、もっと言うなら、伊藤が自ら政権運営することを前提に作った制度であったと言えただろう。日清戦争中に伊藤首相が見せた手腕は、師・吉田松陰をして、「周旋の才あり」と言わしめた面目躍如で、外は列強、内は軍部から宮廷まで、ありとあらゆるところに目配りし、あちらを立てればこちらも立てる・・・の調整能力はもはや職人芸ですらあった。
伊藤は戦役中、その名人芸で戦争指導に邁進したが、ただ、自ら体を張って軍部の専横を矯正するようなことはしていない。
 その意味では、こういう制度は後継者たちが先達同様の調整能力を持つ場合は有効に機能するだろうが、無かった場合はむしろ弊害の方が大きいと言える。統率者が「右向け右」と言って、右を向くとは限らない体制だからである。この点が、スターリンやヒトラーのような独裁型と違うところで、したがって、明治政府でも、使いこなせたと言えるのは、伊藤の長州閥の後輩で日露戦争時の首相であった桂太郎くらいのもので、そのことは、伊藤後の日本の歴史が如実に示しているだろう。

(小説家 池田平太郎)2025-08

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