●江戸の屋台から始まった「立ち食いそば文化」
立ち食いそばというと、せわしない都会の風景を思い出す人も多いのではないでしょうか。
ホームで電車を待つ間にズズッとすすり、出勤前に小腹を満たす。あるいは飲み会帰りに「もう一杯」ならぬ「もう一杯のかけそば」で締める。そんなサラリーマンも多くいることでしょう。
立ち食いそばの原点は江戸時代の屋台で立ったまま食べるスタイル。江戸では「夜鷹そば」、関西では「夜泣きうどん」として、庶民に親しまれました。落語の「時そば」にも描かれているように、庶民にとっては気軽で手早い食事だったのです。
その後、鉄道が整備された明治時代には「駅そば」という形で発展します。
移動の合間に短時間で食べられるため、立ち食いスタイルはピッタリでした。大正から昭和にかけては、労働者や学生、旅人が立ち寄る身近な食事処として定着していきました。
ところが太平洋戦争中と終戦直後に、立ち食いそばはほぼ壊滅します。戦争中は、そば粉も小麦粉も軍の統制下におかれ、農家は供出を命じられて、戦後はこれまで食料輸入をしていた朝鮮半島や台湾からの輸入ができなくなり、深刻な食糧不足が日本を襲ったのです。
特にそば粉は、東北や信州などの自給作物で、コメやムギのような主力作物ではないうえ、収量が少なく、戦後はそば粉が極端に不足しました。
1945年秋からアメリカの対日援助で余剰小麦粉が輸入されるようになると、終戦後のそば屋は、そば粉がほとんど入っていない小麦粉だけの『代用そば』を出さざるを得ない時代だったのです。
そして1950年代半ばから日中民間貿易が始まり、旧満州からそばの実やそば粉が日本に入ってくるようになります。このことはそば好きにとってよほどうれしかったらしく、当時の新聞報道に「中国からのそば実輸入で年末の年越しそば需要にめど」といった記事が載るほどでした。
●70~80年代、立ち食いそば黄金期
立ち食いそばが街中に一気に増えたのは、やはり1970~80年代です。高度経済成長を経て、都市部はオフィス街や繁華街が急速に拡大。朝から晩まで忙しく働くサラリーマンの胃袋を支えたのが、手早く食べられる立ち食いそばでした。
特にこの時期に勢いをつけたのが「名代富士そば」や「小諸そば」といったチェーン店です。
また、80年代は「バブル景気」の入り口でもあり、夜遅くまで働いたり飲んだりした後の「シメの一杯」としての需要も増加しました。立ち食いそばは、まさにサラリーマン文化とともに繁栄したといえるでしょう。
●立ち食いそば屋の衰退
しかし、2000年代以降になると、立ち食いそば屋は少しずつ姿を消していきます。理由はいくつもあります。
まず、原材料費や人件費の高騰です。そば粉や小麦粉、天ぷら油の値段が上がり、「安くて早い」を売りにしてきた立ち食いそば屋にとっては大きな打撃でした。
次に、ライバルの登場。牛丼チェーンやラーメン店、さらにコンビニの弁当やカップ麺が「安くて早い」市場を席巻しました。
さらに、ライフスタイルの変化も無視できません。若い世代や女性にとって「立って食べる」こと自体が敬遠されがちです。
加えて、駅構内の再開発も影響しています。昔ながらのホームの片隅にあったそば屋が、商業施設化やスペース効率のために閉店を余儀なくされるケースが目立ちます。そこにはカフェチェーンやベーカリーが入ることも多く、結果的に立ち食いそばの居場所が狭まってしまいました。
そして忘れてはならないのが、後継者不足です。個人経営のそば屋は高齢の店主が多く、跡継ぎがいないため閉店する例も増えています。またコロナ禍による外食産業全般への影響に加え、ロシアのウクライナ侵攻でのさらなる物価高が、立ち食いそば屋を襲っています。結果、個人経営の立ち食いそば屋は減り、生き残るのは資金力の大手チェーンのみ。
しかしそれもこれからどうなるかわかりません。あと数十年もたてば『立ち食いそば』という食文化はなくなっているかもしれません。もしそうなっても、それも時の流れというものなのでしょうか。
(巨椋修(おぐらおさむ):食文化研究所)2025-10




