日本の秋を彩る言葉は数あれど、季語「草紅葉(くさもみじ)」ほど、足元に広がる静かな美しさを教えてくれるものはないかもしれません。一般的に「紅葉」と言えば、カエデやイチョウといった高木の葉が、燃えるような赤や鮮やかな黄色に染まる壮麗な景色を思い浮かべます。しかし、「草紅葉」が指し示すのは、晩秋の山野や路傍の草々が色づき、まるで紅葉のように見える情景です。
古くは「草の錦」とも呼ばれたその光景は、木々のそれとは一線を画します。派手さや華やかさはありません。代わりにそこにあるのは、風に揺れる小さな命たちが、冬の訪れを前にして見せる、いじらしいほどの輝きです。湿った草地を赤紫色に染めるコブナグサ、芒(すすき)の黄金色、あるいは名も知らぬ雑草がひっそりと帯びる橙色や褐色。それらが寄り集まって、野原や畦道を、そっと織りなすのです。
木々の紅葉が「動」の美しさ、つまり高いところから降りてくるダイナミックなグラデーションだとすれば、草紅葉はまさしく「静」の美しさと言えるでしょう。私たちはふと立ち止まり、視線を下げなければ、その存在に気づきません。しかし、一度気づいてしまえば、その色彩の繊細さと多様さに心を奪われます。赤、黄、茶、そしてかすかに残る緑。それは、命が燃え尽きる前の最後のきらめきであり、草一本一本が辿った一年の道のりを物語っているようです。
俳人・水原秋桜子の「草紅葉 書をふところに 畦に来る」という句は、まさにこの季語が持つ、静謐な趣をよく捉えています。何かを学び思索する者が、ふと日常の喧騒から離れ、足元の小さな宇宙に心を寄せる。草紅葉の風景は、そんな内省的な時間を誘い、私たちに、生きることの謙虚さや、小さなものへの愛おしさを思い出させてくれるのです。
また、草紅葉は、木枯らしが吹き始める前の、ほんの短い間の景色です。その儚さが、いっそうその美しさを際立たせます。やがて霜が降り、雪に覆われる頃には、草々は「枯野」へと姿を変え、その色彩は地面に帰り、静かに春を待つことになります。
この草紅葉の季節こそ、私たちは日常の忙しさから少しだけ目を離し、足元の「草の錦」を慈しむべきではないでしょうか。草紅葉は、派手さはないが、じっと目を凝らす者だけにその美しさを教えてくれる。まるで秋の最後の囁きのように。
(ジャーナリスト 井上勝彦)2025-11




