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日本人にも配慮は無かった文禄慶長の役

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(絵:吉田たつちか)

 豊臣秀吉の朝鮮出兵「文禄慶長の役」で戦場となった朝鮮民衆の悲惨さは言語に絶する。伝染病の蔓延、餓死者の続出は言うまでもなく、「鼻削ぎ」などの日本軍の残虐行為に、日本人奴隷商人による問答無用の朝鮮人捕虜の日本への連行。(船に乗せられたのは良いが、航海中は何日も食糧も水も与えられず、乾きに耐えかねた子供が海水を飲んだところ、下痢になったそうで、すると、日本兵はその子の襟首を掴んでそのまま、海中に投じたという。「しばらくは子供の声が聞こえていたが、すぐに聞こえなくなった」と記録にある。)
 さらに、援軍である明軍も、「不意に乱入してきて、牛を殺して食べ、宝器をことごとく奪う。日本の侵略と変らない」という状態で、為に朝鮮王朝も窮民救済より、援軍である明兵への兵糧確保を優先せざるを得なかった。それをしないと、たちまち、援軍が侵略軍になる恐れがあったからである。
 一方で、では、日本人は平穏無事だったかというとそんなこともなく、現地での日本軍の城「倭城」を造ったのは現地で徴発された朝鮮人ではなく、日本から雑役夫として動員されてきた農民らである。やはり、現地人を使うには言葉の問題があったのであろう。ただ、敵地で戦闘中に築城するのであるから、当然、不眠不休の突貫工事になる。結果、作業中の体罰などは当たり前。耐え切れず逃げだした者は「捕らえて鉄の首枷をかけ、火印(焼き鏝)を押し、牢に入れ」た。また、壱岐では輸送に動員されていた船員が逃亡し、火あぶりの刑に処せられている。見せしめのためもあったのであろう。
 雑役夫らは材木の切り出しに行かされるが、その山中には朝鮮兵が潜んでおり、見つかれば殺される。行きたくはないが、行かなければ恐ろしい処罰が待っている。実際、首無し死体となって発見されたという例も少なくなかったとか。さらに、武士の雑役夫らに対する横暴はそれで終わりではなく、何とその憐れな雑役夫らから略奪を行っていたというから驚きである。
 もっとも、戦国武士らにすれば何も特別なことをやっていたという意識があったわけでもない。日本国内にいるときと同じことをやっていただけのことである。この様子を間近に見た日本人従軍僧・慶念は、「地獄はよそにあるべからず。目に見えてある」と記した。
 こんな風では、雑役夫らは引き揚げて来るときも、果たして、全員、無事に連れて帰って来てもらえたのか。長州(現山口県)の漁村では成年男性が全員徴発されたが、一人も帰ってこなかったので、長老が女子供と村を守っていたという話もある。つまり、日本軍が朝鮮人拉致に精を出したのは、消耗品である日本人農民の穴を埋めるためだったということ。

(小説家 池田平太郎)2025-111

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