UA-77435066-1

静けさの中にある、ひそやかな祝福「冬麗」

 | 

(絵:吉田たつちか)

 冬というと、どうしても「寒さ」や「枯れ」のイメージが先に立つ。ところが季語には、そんな固定観念をふっと裏切る言葉がある。「冬麗(とうれい)」もそのひとつだ。澄んだ青空、やわらかな陽射し、風もおだやか。ほんの数時間、冬が春へと手を伸ばしたような、あの不意打ちのぬくもりを指す。俳人の先達が、こうした小さな“救い”を見逃さずに名付けてくれたのだと思うと、なんだか人間の観察力も捨てたものじゃない。
 冬麗の日には、町全体が少しだけ緩む。公園のベンチには普段より長く座り込む老人がいて、猫は伸びをしながらコンクリートの温度を確かめている。洗濯物は冬らしからぬ軽さで揺れ、商店街の八百屋の店先には、いつもより客の滞在時間が長い。外に出る理由なんて、たいして必要ない。「なんとなく気持ちよさそうだし」という、それだけで十分なのだ。
 私たちの暮らしは、どうも“理由づけ”に追われがちだ効率よく、目的を明確に、時間を無駄にしないように──そんな呪文を唱えながら生きていると、冬麗のような“理由のない幸福”を見逃してしまう。いや、正確には、気づく余裕が削られてしまうと言ったほうがいいだろう。冬麗とは、自然からのご褒美ではなく、「あなた、少し座っていきませんか」という招待状のようなものだ。
 ときどき思う。こうした穏やかな陽だまりは、日々の緊張をゆるめるために、季節が仕掛けた“緩衝材”ではないかと。長い冬を越えるために、人はちいさな温もりを必要とする。厳しさの中にひそむ優しさ、その存在に気づくための合図。冬麗の日に感じるのどかな空気は、単なる気象の偶然ではなく、心の筋肉をほぐすための時間なのだ。
 ふと空を見上げると、透明感のある冬の青が広がっている。夏の青さとはどこか違い、主張が控えめだ。光の粒子ひとつひとつが、輪郭を持って降り注いでくるような気さえする。影は長く濃いのに、そこに宿る静けさは驚くほどやわらかい。人の歩く速度までゆっくりにしてしまう、あの独特の空気感──これを冬麗と呼ばずして、何と呼ぼう。
 思えば、人生の機微も同じだ。劇的な出来事ばかりが心を支えるのではない。ほんの数分の穏やかさ、何気ない会話、淹れたてのお茶の湯気──そうした“小さな麗らかさ”が、思いがけず人を救うことがある。冬麗の陽射しに包まれると、「生きるとは案外こういうことの積み重ねなのかもしれない」としみじみ思えてくる。
・冬麗や理由もいらぬ朝散歩
・冬麗や急かされぬ日の茶のぬくみ
・冬麗に会わぬ理由を忘れけり
・冬麗や心の戸口ひらく朝
              

(ジャーナリスト 井上勝彦)2026-01

 

コメントを残す