冬ざれ――音にすると、どこか「心も干からびそうだぞ」と脅してくる季語である。冬の盛り、木々は葉を落とし、庭も山も色数を減らす。花の派手さや新緑の勢いはない。だから人はつい、冬ざれを「寂しい景色」と決めつけたくなる。けれど実際は、寂しさというより“余計なものが引いたあとの輪郭”が立つ季節だ。
たとえば、風。夏なら木陰の匂いを運ぶ脇役だが、冬ざれの風は主役で、容赦なく頬を撫でていく。川も同じで、草いきれに紛れていた水音が、急にクリアに聞こえる。鳥の声も、遠くの踏切も、乾いた空気に吸い上げられて輪郭を増す。景色が減った分、世界は“聞こえるもの”で満ちてくるのだ。
人の暮らしも冬ざれに似ている。忙しさや付き合いの葉が落ちて、予定表が少し白くなる。すると、普段は見過ごしていた小さな用事――薬缶の湯が沸くまでの間、窓の結露を拭くこと、マフラーのほつれを直すこと――が、妙に大切に思えてくる。派手なイベントがないからこそ、生活の芯が見える。冬ざれは、人生の棚卸しに向く季節である。
もちろん、冷えは手強い。心まで冷え込む日もある。そのときは無理に元気を作らなくていい。冬ざれの庭が、芽を出さないことを責められないように、人も「今日は伸びない日」を許されている。代わりに、せめて一つだけ火を足す。湯気の立つ味噌汁でも、読みかけの本でも、誰かへの短い連絡でもいい。小さな火種は、乾いた季節ほどよく燃える。
冬ざれは、華やかさの反対側にある“静かな豊かさ”を教えてくれる。削ぎ落とされた景色は、春の準備でもある。何もないように見えるのは、次の色のための余白だ。だから私は冬ざれの日ほど、少し丁寧に歩く。踏みしめた枯葉が鳴る音が、ちゃんと今日を生きている証拠に聞こえるから。
・冬ざれや音だけ冴えし放置畑
・冬ざれや庭の余白に光あり
・冬ざれや伸びぬ芽もまた許されし
・冬ざれの野辺に眠る春の色
(ジャーナリスト 井上勝彦)2026-02




