怠け者は、共同体にとっていちばん目障りな存在かもしれない。昔話『三年寝太郎』の主人公・寝太郎もまさにそうだ。毎日毎日寝てばかりで、周囲から「寝太郎」と笑われる。山口県山陽小野田市厚狭に伝わる話では、庄屋の息子でありながら三年三月も寝て暮らしたというから、なおさら反感を買いやすい。だがこの物語が面白いのは、「怠けて見える」ことが、そのまま「怠けている」ことの証明にはならない、と読者の先入観を揺さぶってくる点にある。人は見かけによらず——それは道徳標語というより、他者理解の技法として提示される。寝太郎はある日ひょっこり起き上がり、千石船や大量の草履を用意させ、船で佐渡へ向かう。帰ってくると、泥だらけになった草履を大桶で洗わせ、そこから砂金を得る。そしてその資金で堰や水路を整え、荒れ地を水田へ変えて村を救うのだという。外から見える「寝」は、内側で進んでいた「算段」を隠していたのだ。寝太郎が三年間ただ横になっていたのではなく、「どうすれば灌漑を成し遂げられるか」を考え続けていた、という説明は象徴的である。見た目の稼働と、頭の中の稼働は一致しない。
ここで物語は、寝太郎の“逆転劇”を痛快譚として消費するだけにとどまらない。寝太郎を笑っていた側——つまり私たちの側——の視線そのものが問われる。共同体が困窮するとき、人は原因を「誰か」に求めたくなる。干ばつや不作のようにコントロール不能な災厄ほど、スケープゴートは作られやすい。働かず、目に見える貢献をしない寝太郎は格好の標的だ。しかし寝太郎の知恵と行動が村を潤す瞬間、村人たちの断罪は、そのまま“早合点の恥”へと反転する。人は見かけによらない、とは「意外に有能な人もいる」という賛辞ではなく、「見かけだけで他者を裁く共同体は、危機のときほど誤る」という警告でもある。
さらに厚狭の伝承では、この物語が土地の記憶に結びついている点が興味深い。寝太郎が築いたとされる堰や水路は、現在も「寝太郎堰」「寝太郎用水路」と呼ばれ、地域のシンボルとして語られている。つまり寝太郎は、単なる“サボりからの一発逆転”の主人公ではなく、暮らしを支えるインフラの象徴にまで昇格している。怠け者というレッテルを貼られた人物が、結果として共同体の基盤を作る——ここに「評価は遅れてやってくる」という含意がある。目の前の態度や表情、今日の行動だけで、明日の価値を測れない。むしろ大きな仕事ほど、準備の時間は外から見えにくい。
現代に引き寄せれば、「がむしゃらに動いている人が偉い」「忙しそうに見える人が有能」という空気は今も強い。だが、考える・練る・待つ・機を測るといった時間は、成果が出るまで“何もしていない”と誤解されがちだ。寝太郎の三年は、その誤解が極端な形で示された寓話である。もちろん、すべての「寝ている人」が寝太郎ではない。しかし、私たちが他者を評価するとき、「目に見える勤勉さ」だけを尺度にしていないか、と自分の視線を点検する余地はある。人は見かけによらず——それは寝太郎を褒める言葉であると同時に、見る側の想像力を試す言葉なのだ。そう考えると、この昔話は“怠け者の奇跡”ではなく、“早とちりを越える知恵”の物語として、今も十分に生々しい。
(ジャーナリスト 井上勝彦×AI)2026-03





