●江戸時代の屋台は串ものが当たり前だった
江戸時代に生まれた屋台文化、その多くが串ものだったのです。串に刺していないのは、寿司やうどん、そばくらい。
ほかの、湯気を立てる田楽(おでん)、油の音を鳴らす天ぷら、炭火で焼かれる魚。その多くは皿に盛られることなく、串に刺されたまま提供されていました。
いまでは焼き鳥や串かつくらいしか残っていませんが、「串の食文化」と「屋台の食文化」が一緒に発達してきたのです。
江戸時代、屋台は都市生活を支える重要な存在でした。江戸は単身男性が多く、長屋には十分な台所もありません。火事の危険もあり、外で手早く食べられる屋台は合理的な選択でした。
さらに、串に刺した食べ物は、皿や箸を使わず、立ったまま食べられ、洗い物も不要です。田楽や天ぷら、団子、焼き魚まで、串は屋台にとって最適な形態でした。串文化は、無作法どころか都市生活の知恵だったのです。
また、江戸時代の屋台の多くは、天秤棒でかつぐ移動式のものでした。そのため、椅子もカウンターもありません。そんなとき「ちょっと一杯やりながら何か食べたい」となったら、片手にお酒の入った湯飲み、片手には串もので、食べながら飲むことが可能です。もしお皿とお箸で出されても、そうなるとお皿を置く場所が必要になりますが、移動式屋台には置き場所がない。しかし、串ものなら大丈夫というわけです。
●屋台は下層民の食べ物
しかし明治時代に入ると、状況が変わります。近代化を進める政府は、「文明的」な生活様式を重視し始めました。
屋台は次第に「不衛生」「野蛮」「貧しい」というイメージを背負わされていきます。同じ料理でも、串を外して器に盛り、店の中で提供すれば「上等な料理」になりました。
少しずつ田楽は会席料理に、天ぷらは高級和食へと姿を変えていきます。串に刺したまま食べるという行為そのものが、社会的に低く見られるようになったのです。
まあ、これは江戸時代でも同じで、富裕層は料理屋など店の中で食事をし、下層民は屋台で食べていましたから。
●ニワトリは高級食材
ちなみに江戸時代には、串に刺した焼き鳥は屋台にはなかったと考えられています。もちろん、宴会料理には、野鳥やニワトリを焼いた料理はありましたが、それは高級料理です。
なぜ屋台で串に刺した焼き鳥がなかったか。それはニワトリがとても高級な食材だったからです。この状況は、なんと戦後の1950年代まで続きます。
●消えつつある屋台文化
戦後、焼け野原となった都市で、屋台は人々の空腹を満たす重要なインフラでした。
おでんや焼き鳥、天ぷら、ラーメンなどが並び、屋台の串文化もまだ息づいていました。しかし日本が豊かになってくると、食品衛生法や道路使用規制が厳格化され、屋台は急速に姿を消していきます。
その結果、屋台の機能だけを引き継いだ存在として生き残ったのが、立ち食いそばや立ち飲みです。屋内で営業し、許可を受け、税を納める。立ち食いは合法化された屋台だったとも言えるでしょう。もはや、昔ながらの屋台文化は消えつつあると言ってもいいでしょう。
●生き残った串文化
一方で、串文化は「構造的に必要な料理」だけが残りました。焼き鳥や串かつは、焼く・揚げる工程そのものに串が不可欠で、代替がききません。酒のつまみとしての相性の良さもあり、居酒屋文化の中で生き残ったのです。
屋台と串文化の衰退は、単なる食の変化ではありません。そこには、貧しさや雑多さを社会の表から消そうとする力がありました。屋台は下層都市民の生活を支える存在でしたが、近代国家はそれを「見えないもの」にしていきました。残ったのは、清潔で管理された形に変換された文化だけです。
屋台と串の食文化は消えたのではなく、形を変えて、いまも日本人の生活の中に息づいているのです。
(巨椋修(おぐら・おさむ):食文化研究家)
2026-03




