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竹筍生ず(たけのこしょうず)

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 五月の土は、まだ冬の冷えを深く抱えたまま、内側にだけうっすらと熱を宿しはじめている。踏めばやわらかい。黙っている。けれど、その沈黙の底では、見えない何かが絶えず進んでいる。朝、竹藪の縁を通ると、昨日まではただの地面だった場所に、ひとつ尖ったものがある。筍である。土の襞を押し分け、闇の重みを背に負って、細い刃のように現れている。

 それは芽吹きというより、地中で熟していた夢が、ついに地表へ滲み出た姿に近い。春が花によって始まるのだとすれば、初夏はもっと寡黙に訪れる。咲くものは遠くから見える。だが、出るものは足もとで起こる。気づかなければ、そのまま見過ごしてしまうほど低いところで、世界の芯をほんのわずかに押し上げるようなことが起こっている。

 「竹筍生ず」という言葉には、季節の名でありながら、どこか運命めいたひびきがある。生まれるでもなく、育つでもなく、生ずる。その古い言い方のなかには、意志よりも深いところから押し寄せてくる力がひそんでいる。命は、自分でも知らぬ場所で支度を終え、ある朝ふいに土を割る。

 しかし、その「ふい」は、地上にいる者の言い分にすぎないのだろう。土の下では、もっと前から暗い仕事が続いていたにちがいない。雨を含んだ匂い。根のかすかなざわめき。光を知らぬままふくらんでゆく白い身。筍は、その朝に生まれたのではない。ただ、見えないところにあったものが、見えるところへ移ってきただけなのだ。

 人の変化も、たぶん、そういうかたちをしている。ある日、急に書けるようになったように見える人がいる。急に強くなったように見える人がいる。あるいは、急に誰かを愛さなくなったように見える人もいる。けれど、その急は急ではない。胸の奥の湿った場所で、名も持たぬまま育っていたものが、ようやく輪郭を得るだけだ。言葉になる前の言葉。涙になる前の痛み。決意になる前の、かすかな傾き。ひとはみな、自分の内部に小さな竹藪を抱えている。

 花は、ひらくとき空へ向かう。筍はまず土を押す。世界へ出る前に、いちど闇とせめぎ合わなければならない。だからあの姿には、花にはない切迫がある。やわらかな皮に包まれながら、その先だけがひどく無防備で、ひどく強い。やわらかいものだけが持つ強さが、たしかにある。硬いものは砕ける。やわらかいものは、生まれてくる。

 しかも筍は、あまりにも早く竹になってしまう。地上へ顔を出したと思えば、もう別のものへ向かっている。ひとくちのやわらかさの向こうには、すでに節の未来がある。旬とは、ものがもっともよく在る時間であると同時に、もっとも早く失われてゆく時間なのかもしれない。やわらかいままではいられないからこそ、そのやわらかさは匂い立つ。

 季節の味とは、時間の若さを食べることなのだろう。筍ごはんの湯気には、まだ土の匂いが残っている。若竹煮の青みには、これから硬くなってゆくものの、束の間のためらいがある。私たちは味だけを口にしているのではない。過ぎつつあるものの気配を、舌の上で受けとめている。失われてゆく途中にあるものだけが放つ、かすかな明るさを食べている。

 人の生にも、きっと同じような旬がある。言わなければならなかった言葉にだけ宿るやわらかさ。まだ傷つききっていない心にだけ残るためらい。何かになる前の時間だけが放つ匂い。けれど、そのただなかにいるあいだ、私たちはそれと気づかない。あとになってから、あれがそうだったのだと知る。筍がほどなく竹になってしまうように、ある瞬間は、名づける前に別の姿へ移ってしまう。

 だから「竹筍生ず」という言葉には、どこか哀しみがある。希望の言葉でありながら、その希望が長くはとどまらないことを、すでに含んでいるからだ。生ずるものは、やがて硬くなり、高くなり、風に鳴る。地中の白さを忘れ、節を刻み、影をつくる。けれど、それでいいのだとも思う。筍は筍のままでいるために出てくるのではない。竹になるために、土を割る。やわらかいものは失われるのではない。別の強さへ移ってゆく。その途中にだけ許された名が、筍なのだ。

 見えないところで育つものを、どれだけ信じられるか。歳月の芯にあるのは、たぶんそのことだ。土の下の時間は、外から見れば無為に等しい。ただ暗く、湿って、黙っている。けれど、本当に深い変化はたいていそこで起こる。祈りに似たもの。赦しに似たもの。もう戻れないと知りながら、それでもなお誰かを思ってしまう感情。そういうものは、陽の当たる場所では育ちにくい。目に見えないところでだけ、じわじわと形を持つ。

 五月の竹藪に立つと、光は若く、風はまだ名を持たない。葉擦れの音は、遠い水にも、誰かの小さな寝息にも似ている。その足もとで、土はまた何かを押し上げているのだろう。耳を澄ませば聞こえそうで、ついに聞こえない、生長の気配。世界は、見えるものでできているのではない。見えないものが、見えるものを押し上げている。

 私の中にも、まだ地上へ出ていないものがある。言えば壊れそうで、名づければ痩せてしまいそうな、かすかな尖り。願いというには淡く、諦めというにはまだ温かい何か。いまは土の下でいい、とそれは言う。闇の水を飲み、沈黙のなかで身をつくり、やがて来る朝のために内側へ伸びている。見えないままで育つ時間を持たなかったものは、地上の風に耐えられない。

 「竹筍生ず」とは、季節の報せである前に、ひとつの秘密なのだろう。伸びるものは、目立つところで伸びるのではない。生の深い仕事は、いつも暗がりで行われる。だから、見えないことを焦るには及ばない。土は黙っている。だが、その沈黙の内側で、世界を少しずつ持ち上げている。

 そしてある朝、地面はふいに裂ける。まだ青くもなく、まだ竹でもないものが、ひとすじの意志となって現れる。そのとき私たちは知る。昨日までの無音が、無音ではなかったことを。季節はいつも、そうやって来る。人生もまた、たぶん。

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