UA-77435066-1

敗北を免れる妙法

 | 

1201-03 良寬という人の名言に、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これが災難をのがるる妙法にて候」というのがあります。この点は、国家においても、同じ事が言えるのではないでしょうか?

  昨今の日本外交の閉塞感に伴い、感情論ばかりが先走る国内世論・・。これらの人たちは、論拠の是非以前に、対中・対米などのすべての関係でもしやするとすべてに勝とうと思っているのではないでしょうか?すべてに勝つなどというのは、日本のような小国にとって、普通に考えれば出来得る話はないのですが、そう言うと大体、返ってくるのは、「アジア諸国との連携を深めて中国を牽制すべきだ」、「EUと結んで、アメリカに対抗するべきだ・・。」などというような安直な意見です。
 日清戦争後の三国干渉の際も、ときの明治政府の選択肢としては
①拒否
②列強のバランスオブパワーをうまく利用して回避
③受諾・・・の三つがあったと言われていますが、この中で、もっとも厄介なのが②だと思います。
②は、一見、良さ気に見えますが、国家間の利害というものは、確かに、自国の利益の為に第三国を排除してくれることもありますが逆に、「強きを助け、弱きをくじくことで利を得る」場合もあり、また、仮に排除してくれたとしても、その国も別にボランティアで排除してくれたわけではないのですから、その国が送り狼になってしまう・・・ということも無いわけではなく、実際に、そうなってしまったケースも決して少なくはなかったようです。
 無論、ナポレオン戦争後の「会議は踊る」で有名なタレーランの例もないわけではありませんが、これは、極めて苦肉の策的なイレギュラーなケースであり、あまり、国家指導者が取るべき対応としては現実的だとは言えないでしょう。(そもそも、日本は先の大戦に負けたときから、アメリカの軛の下に置かれているわけで、それから抜け出したいのなら、もう一度、戦争してアメリカに勝つか、アメリカの力が弱まるのを待つしかなくだとすれば、嫌な目にあわされようが、信長に我が子の首を差し出した家康よろしく、とにかく、我慢するしかないように思います。)
 そして、この点で、欧米列強の侵略に対して、独立を守ったタイの対応と並んで、好事例のひとつとして挙げられるのが、第二次大戦中のフィンランドの指導者、マンネルハイム元帥の「勇気ある妥協」です。
以下、我が敬愛する大橋武夫氏の著書「ピンチはチャンス」から一部、抜粋しますと、
<1939年9月1日、第二次世界大戦勃発とともに、ソ連はフィンランドに対し以下の条件を強硬に要求してきた。
①カレリア地峡の国境より40kmほどの部分の領土割譲。
②フィンランド湾内の四島の譲渡。
③ベツモア地区内の漁夫半島の譲渡。
④ヘルシンキ西方120キロのハンコウ湾にソ連海軍基地設置。
これに対し、当時、フィンランド軍を指揮していたマンネルハイム元帥は「承知せよ」と進言したが、政府はこれを拒否。そのため同年11月30日、ソ連は50万の大兵をあげて、フィンランドに侵攻してきた。フィンランド軍13万は、マンネルハイムの指揮のもとに、雪と複雑な地形を利用して善戦し、ソ連軍に20万もの損害を与えて大いに苦しめたが、頼みにしたスウェーデンの援助もなく、国際連盟の仲裁も実効がなくて、漸次苦境に陥り、衆寡敵せず、翌年2月、マンネルハイムの切なる進言を納れて、ついに無条件降伏した。このときの、ソ連側の和平条件は、
①カレリア地峡の割譲。
②ラドガ湖北岸地帯の割譲。
③ペツアモ地方の割譲。
④ハンコウ半島の譲渡。
という、当時のフィンランド大統領が発狂したほどの苛酷な条件を押しつけられた。結局は、無駄な血を流して、和平条件を厳しくしただけ・・・という結果に終わったわけで、開戦前に、マンネルハイムの進言に従うべきだったのである。
1941年6月22日、今度は独ソ開戦となるや、フィンランドは進攻してきたドイツ軍とともにソ連を攻撃することになり、フィンランド軍は8月末には1940年に失った領土を回復。マンネルハイムは将来のことを考え、「ここで停止する」と強硬に主張したが、ドイツ軍はこれを許さず、フィンランド軍は東カレリアを攻略してムルヤンスク~レニングラード鉄道に迫るという有利な態勢となった。
1944年1月、ドイツ敗退に伴いソ連軍は逆襲に転じ、6月、カレリア地峡の国境を突破したため、フィンランド軍は苦戦に陥り、8月1日、リーティ大統領は辞任し、後を受けたマンネルハイムは9月14日、ソ連と停戦協定を結んだ。
主なる条件は、
①ポッカラ地区(ヘルシンキ西南万)地区を50年間ソ連に租借させる。
②オーランド諸島(フィンランド湾出口)を非武装化する。
③ペツモア地区をソ連に割譲する。
④3億ドルの賠償金を6年以内に支払う。
⑤1940年の国境を認める。
9月19日、フィンランド国会は200人中108人の賛成をもって、涙をのんでこの降伏条件を受諾し、マンネルハイムは「神よフィンランドを救い給え」の末文で終る停戦命令を発した。フィンランドは勝てなかった。しかしマンネルハイムの「善戦をバックとする勇気ある妥協」によって、ソ連軍による軍事占領を辛くも避け、ともかく息の根をとめられることだけは免れた。小国のとるべき国家戦略として学ぶべきものが多い。>
 マンネルハイム元帥は、出来ないことをやらずに、出来ることの中で精一杯のことをやったと言えるのではないでしょうか。
 「天皇の世紀」というドラマの中で、薩英戦争後の御前会議において、強硬派の面々は、敗戦を認めることについて、「されば、薩摩の面目は如何する!薩摩の威信は地に落ちるぞ!」と迫る場面がありました。これに対しての、劇中での大久保利通の言葉こそが、すべてを総括しているように思えます。
「威信が地に落ちても良かとやごわせんか。最後に勝てば良かとやごわせんか・・・」これこそが、「敗北を免れる妙法にて候」ではないでしょうか、御同輩。
(小説家 池田平太郎/絵:吉田あゆみ)
2011-01

コメントを残す