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源頼朝の隠し子伝説

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14-11-1  源頼朝の隠し子伝説を端緒とする薩摩島津家。将軍家や皇室の縁に連なるなど鎌倉以来の有数の名門である一方、勇猛で知られ、関ヶ原の戦いでは敗走する西軍の中にいながら敵中突破で戦場離脱に成功するなどその名を日本の戦史に刻んでいます。

ただ、その島津にあってもやはり人間の「欲」という万国共通の物だけはしっかり規格内に収まっていた・・・、というよりも猛獣ほど自らの欲に忠実なものなのかもしれませんが、そこを巧妙に衝かれ中央政権に組み敷かれることになります。

古代ローマ人は、その版図の拡大に伴い支配地域の異民族を分割して統治する、いわゆる分割統治策を編み出しました。

これを継承したのが近代の欧米列強でイギリスは植民地を人種、宗教、地域、階層間で反目させて統治しましたが、もっと卑近なところでは戦後の日本が占領軍の直接統治ではなく日本政府を間に挟む形になったことから、国民の不満はすべて日本政府に向かい、マッカーサーには感謝の手紙がたくさん行ったというのがわかりやすい例えだったでしょうか。(もっともアメリカも最初から間接統治で決まっていたわけでもないようですが。)

で、戦国日本でこの妙法を最も多用したのが豊臣秀吉です。あるいは、秀吉は宣教師などから話を聞いて分割統治策という物を知っていた可能性も否定できませんが、おそらくこれは人間心理に長けた秀吉オリジナルの着想だったでしょう。

秀吉は、毛利から小早川隆景、徳川から石川数正、上杉から直江兼続を「分割」せしめましたが、これらは意図ほどには成果を収められなかったようで、もっとも有効に作用したのが島津でした。

戦国島津家は長らく内乱の中にあったものの島津義久を当主に以下、義弘、歳久、家久の有能な島津四兄弟の時代となって急成長・・・と、ただ、こういうと「四兄弟結束して」と思われがちですが、これは逆に言うと当主義久は他の有能な弟たちへの配慮を求められるということでもあり、当主としての発言力には限界があったのでしょうね。

その後、遂には九州全土を併呑せんとするまでになるも、ここで中央に勃興した豊臣政権に屈服、その支配下に入った後、下の弟二人は先に没し、島津家は義久社長と義弘専務という体制となる・・・と。

となれば、やはり弟義弘からすれば「専務取締役」とよりも「代表取締役」を名乗りたいのは人情なわけで、そこに目をつけた秀吉は当主義久を親会社の権限で窓際に追いやり、代わって義弘を当主扱いで徹底して厚遇します。

こうなると義弘は大喜び。おまけに秀吉の後ろ盾があっての大抜擢ですから、秀吉の意向には従順に従うことになったと。(小説家 池田平太郎)2014-11

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