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戦国武将はどんなものを食べていたのか?

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カラー1●意外と少なかった鮮魚

2016年のNHK大河ドラマは戦国武将の真田信繁(幸村)を主人公にしたもの。では、舞台となる戦国時代、人々はどんなものを食べていたのでしょう?
食に関する当時の記録ですが庶民がどのようなものを食べていたかというものは、ほとんど残っていません。残っているのは。公家や大名のおもてなし料理や、贈答品の記録、あるいは『往来物』と呼ばれる往復書簡、または日記に、残されています。
魚の食べ方としては、まだ醤油が普及していなかったものの、いまとほとんど変わりません。ただ、活魚、鮮魚で食べられたのは、漁港近くに住んでいた人に限られておりました。理由は簡単。新鮮な魚を台所に運ぶまでの交通手段が極めて限られていたからです。
よって、多くの魚は、現在の新巻鮭のように荒巻にしたり、塩干物にすることが多かったようです。ときどき記録に『無塩(ぶえん)』と書かれた魚が出てきますが、これはおそらく鮮魚のことだと考えられています。わざわざ『無塩』と書き記すほど、活魚や鮮魚が珍しかったのかも知れませんね。

●戦国時代、もっとも高級とされた魚とは?

さて、ここで皆さんに問題です。戦国時代、もっとも高級とされた魚は何だと思います? ヒント、現在でももちろん食べられてはいますが、少なくとも私自身は東京のスーパーや魚屋さんで売られているのを見たことがありません。
答え:コイ。
意外でしょ(笑)? あの池や川、湖に棲んでいる淡水魚のコイが、戦国時代以前ではもっとも高級とされ、公家や戦国武将の饗応料理や贈り物で喜ばれた魚なのです。
その理由は、コイは河をさかのぼってやがて龍門に入り、龍となるという言い伝えが中国より伝わっていたため、大変ありがたくもおめでたい魚ということになっていたのです。コイは将軍が天皇家や宮家に送る最高位の魚だったのです。
次いで高級な魚はタイ。当時の魚のランクとしては、コイは別格として、海のものが高く、次いで川のもの、一番ランクが低いのが山のものでした。タイは海の魚の最上位と魚とされていました。
その次が関東ではあまり見かけませんが、いまでも京料理の高級魚であるハモも、記録によく残っています。これは当時、都が京都にあったからかも知れません。ハモは皮膚呼吸ができるため、海から引きあげても一日くらいなら生きているので、海のない京都の人々や、海から離れた領地を持つ大名でも鮮魚を食べることができたため、人気があったのかも知れません。もっともハモが捕れるのは瀬戸内海や九州ですから、西国大名などは好んで食べたのでしょう。
貝類ならまずはアワビ。次いでカキ。これらの貝類も、干したものが贈答品として好まれたようです。

●好まれたお肉は意外にも……

では、獣肉はどうでしょう? 日本に仏教が入ってきてから、獣の肉を食べることが禁止されたりして、どんどん食べなくなっていきました。しかし、もちろんまったく食べなかったわけではありません。江戸時代では薬と称して肉を食べていました。

戦国時代にヨーロッパからやってきた宣教師ルイス・フロイスは
「日本人は野犬や鶴、大猿、猫、生の海藻などを喜ぶ」
「我々は犬は食べないで牛を食べるが、彼らは牛を食べずに犬を家庭薬として食べる」
と、書き残しています。犬、鶴、大猿、猫……、現代の日本人からみたらギョッとするものばかりですね。当時の日本には牧畜の発想はなく、牛や馬は農耕用や運搬用で、食べることはほとんどありませんでした。養豚も一部の地域では行われていましたが、一般的ではなく、戦国時代の日本人が食べていたのが、野生の動物の肉だったのです。
ではここで問題です。中世の日本において、記録に残っている食肉はなんでしょう?
答え:タヌキ。
え? って思うでしょう。でも記録ではそうなっているのです。タヌキは主に狸汁にして食べていたようです。
鳥肉ではなんでしょう。
答え:雁(かり)、次いで鶴、その次が白鳥。
意外な食べ物ばかりですね。でもこれらは公家や大名の贈答品などの記録からなので、本当のところ圧倒的多数である庶民がどのようなものを食べていたのかは、残念ながらあまり記録に残っていません。いったい戦国時代の庶民はどんなものを食べていたのでしょうね?

(食文化研究家:巨椋修(おぐらおさむ)/絵:そねたあゆみ)2016-03

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