絵:そねたあゆみ
筑前福岡藩二代藩主・黒田忠之という人物は、父長政亡き後、お目付役だった重臣と対立し、日本三大お家騒動の一つに数えられる黒田騒動を起こしたことから暗君の典型のように言われる人物ですが、実際には藩は成立時に祖父・黒田官兵衛以来の重臣たちに論功行賞として大盤振る舞いをしており、当時、一千石以上の家臣32人だけで総知行高の43.5パーセントを占めていたとか。今で言うなら、取締役だけで全社員の半分の給与を占めているようなもので、いずれ、是正を迫られることになるのは必至だったでしょう。
ただ、戦国を生きてきた祖父や父なら同じ削減するにしても、慎重に、時間を掛けてやったでしょうが、忠之が生まれたのは、事実上の戦国最終戦争というべき、関ヶ原の戦いの2年後。つまり、「戦国を知らない子供たち」ということで、祖父や父と違い、生まれながらの殿様。当然、リストラされる側の痛みなんてわかるはずもなく、家臣の反発に対する配慮も無い。結果、藩を存亡の危機に貶めた黒田騒動に至ってしまったわけで、その点では確かに「暗愚」と言われても仕方が無かったでしょうね。おまけに、そういう経緯があったことから島原の乱では莫大な犠牲と経費を負担。さらに、長崎警備の大任まで命じられたことで、藩財政逼迫の端緒を作るのですが、それはさておき、忠之はこういう殿様だけにまるで、古代ローマの暴君ネロのように様々な悪い伝説の主とされました。
忠之が、鷹狩りの帰りに、領内の寺に立ちよったところ、美しい寺小姓を見て恋慕。差し出せと言ったが上人は拒否。ところが、よくよく調べさせると寺小姓は本当は女だということが発覚したことから、激怒した忠之は上人を残酷な方法で処刑。その場所はそこだけ草が生えないと言われた。
また、忠之は参観交代の帰途に大阪で美しい芸者を身請け。国もとに連れ帰ったが、側室がうるさいので、この芸者を側近に下げ渡したところ、側近はお綱という妻と二人の子がありながら、すっかり芸者に参って妻子と別居。おまけに仕送りもしないので、お綱は貧窮にあえぎ、遂に狂乱。幼い子供二人を刺し殺し、薙刀を小脇に本宅に駆けつけたが、逆に返り討ちにあう。お綱が手をかけたまま悶死した門はお綱門と呼ばれ、その柱木に触れると熱病に冒されるといわれ、明治以降も夜警の兵士がたびたび、恐い思いをしたという。ちなみに、お綱の怨霊を祀ったお綱大明神は、男女の性愛を呪岨するものとして信仰されたが戦災で焼け、今では家庭裁判所の庭内になっている。つまり、お綱は今も夫婦のいざこざを見守っていると。
(小説家 池田平太郎)2017-11