絵:そねたあゆみ
仙台藩主・伊達政宗の家臣、支倉常長に率いられ、遠く、欧州の地にまで行ったことで有名な慶長遣欧使節団ですが、一方で使節団を送り出した政宗には天下獲りの野望があったという話もあります。実は私はかねてよりこの説には疑問でした。政宗ほどの人にしてはあまりに構想が杜撰すぎるからです。
まず、使節団は現在の宮城県石巻市を出帆後、太平洋を横断し、北米大陸に到達するわけですが、当時の船で太平洋を横断するということ自体、今日、我々が考える以上の苦難でした。事実、この247年後に咸臨丸で太平洋を横断した日本人の大半が勝海舟を初め、船酔いで使い物にならなかったと言われてますし、昭和期でさえも離島に帰省する人たちは嘔吐用のバケツが手放せなかったと聞いています。ましてや、当時の船では船酔いは地獄の苦しみだったでしょう。乗員の多くは生きて陸地が踏めたことに喜びますが、道のりはまだ遠く、当時、アメリカ合衆国はまだ無いため、海路、パナマへ上陸、徒歩でパナマ地峡を越えようとします。が、まだ、電信設備も無い時代。着いたからといって、先方が大西洋を渡る船に乗せてくれるかの保証はありません。
結果、メキシコに上陸した時点で一行は180人が30人となりますが、それでもなお、常長は愚直に先を目指します。そうやってようやくに到着した欧州では通商の許可を求め奔走。却下された後もなおも粘りに粘り、生活費の支給を打ち切られてもなお、許可を求めて滞留し続けます。結果的に許可を得ることは出来ませんでしたが、ここまで来ると、使命に賭ける姿勢はもはや、「主命」などという簡単な言葉で済ませられるものではなく、もっと切羽詰まった悲壮感さえ漂ってきます。何が常長をしてそこまでさせていたのか。
実は、この前々年、仙台平野一帯は、後に「慶長三陸津波」の名で呼ばれることになる大津波の襲来を受け、壊滅的な被害を受けていました。そして、さらに直面することになったのが「塩害」。仙台藩では、以後、10年が経過してもなお、米の収穫が出来なかったとも言われていますから、つまり、常長一行が送り出された時の仙台藩の状況は、「政宗の天下獲りの野望」などという悠長なことを言っていられるような状態ではなかったわけです。この未曾有の災害に、さすがに、この時、最終権力者・徳川家康も、「復興の為の活路を貿易に見出したい」という政宗の要望を無視することは出来なかったようで、この使節団に許可を与えています。つまり、送り出した側も、送り出された側も、ともにそこには悲壮な決意と覚悟があったということですね。
(小説家 池田平太郎)2018-03