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即席めんを発明し世界の食文化を変えた男 安藤百福 後編

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(絵:そねたあゆみ)

●チキン味が世界に受け入れられたヒミツ

 百福さんは新作ラーメンの味をチキン、すなわち鶏ガラスープ味と決めます。これはニワトリが嫌いな息子さんも、チキンスープなら大丈夫であったことからなのですが、これが良かった。

 百福さんは世界初のインスタントラーメンである『チキンラーメン』を発明しますが、このラーメンが世界中に広まるためには、「ビーフ」や「豚骨」のラーメンではうまく行かなかったかも知れないのです。

 理由は世界にはいろいろな食文化があり、イスラム教徒は豚食はタブー、ヒンズー教徒は牛食がタブーなのです。しかしニワトリをタブーにしている大宗教はありません。さらにキンスープは、世界中のスープの基本であったからです。百福さんは、失敗を重ねながら文字通り寝食を惜しみ、一日3~4時間しか寝ないで研究を続けます。

●チキンラーメン完成! そして発売

 百福さんの失敗を調べながら、いまこれを書いている私には一つの疑問が浮かびました。「乾麺なら、そうめんもあれば乾燥うどんもあったはず。百福さんはなぜそちらの方向にいかなかったのだろう?」

 おそらく百福さんはより簡単に提供する食品を作りたかったのではと推測します。後に登場するインスタントラーメンの袋めんは、麺と粉末スープを別にしたものが誕生しますが、それは鍋で煮なければならないもの。それなら、そうめんなどの乾麺と同じ。

 しかし百福さんが考えたのは、鍋にいれて煮なくていい麺、お湯を注ぐだけで完成してしまう麺。まさにインスタント! まさに即席!これが百福さんが目指したものであったのでしょう。そして昭和33年8月25日。ついに世界初のインスタントラーメン『チキンラーメン』が完成します。

 このお湯をそそぐだけで完成してしまうラーメンがなければ、後に百福さんが発明する世界初のカップめんである『カップヌードル』もできなかったに違いありません。

●当時、チキンラーメンの値段はお店のラーメンと一緒

 昭和33年(1958年)8月、ついに世界初のインスタントラーメンである『チキンラーメン』が発売されます。

 一袋35円というお値段でした。さてこの値段、昭和33年ではどんなものが買えたのでしょう? わかりやすくするため、当時の物価と現在の物価を比べてみましょう。

 国鉄初乗り10円(JR山手線140円)、銭湯の入浴料16円(東京都460円)、ざるそば25円(600~1000円)、ラーメン35円(700円)……

 そう、当時チキンラーメンはお店で食べるラーメンと同じ値段だったのです。現代の感覚では高すぎると感じることでしょう。

 いえ、実際、当時の人も高いと感じたかも知れません。しかし、チキンラーメンは飛ぶように売れました。

 これ、ちょっと珍しい現象なんです。食というのは、命がかかっていますからどうしても保守的になる。大人ほど新しい食べ物を食べたがないのです。それにお店で食べるラーメンと同じ値段。初めてみる形、色だって悪く言えばちょっと毒々しい。

 まず消費者より問屋が「本当に売れるのか?」と、不安がったといいます。しかし売り出してみると、どんどん売れに売れて生産が追い付かなくなるほどだったといいます。

●大ヒット、そしてラーメンという言葉を根付かせる

 チキンラーメンの創始者である安藤百福さんは、さっそく工場を大きくして、一日10万食以上を生産するようにしましたが、それでもまだまだ追いつかない。

 この大ヒットの理由は、単にチキンラーメンが手軽に早く食べることができ、美味しいというだけではなさそうです。

 実は百福さん、さすが実業家、開局したばかりの民放でチキンラーメンを宣伝。これで一気にチキンラーメンは全国区に躍り出たのです。

 それがどれくらい凄いことだったのか?

 実は『ラーメン』という言葉が我が国に根付いたのは、チキンラーメンによってでした。それまで『支那そば』とか『中華そば』と呼ばれることが多く、ラーメンはそれほど使われていなかったのです。

 ところがテレビの力は凄いもので、チキンラーメンのテレビコマーシャルと大ヒットによって、日本に新しい言葉が根付いたのです。

 もしチキンラーメンが生まれていなければ、もしかしたら日本にラーメンという言葉は消えてしまったかも知れません。

●敵は類似粗悪商品

 いまでこそジャンクフード扱いをされているインスタントラーメンですが、発売当初、栄養が豊富な食べ物とみなされていました。

 なんといってもチキンのエキスが麺に染み込んでいるわけですから。厚生省は「妊産婦の健康養補給商品」に推奨されたくらいです。さらに百福さんは当時の日本人に不足していたビタミンを添付、厚労省から『特殊栄養食品』として認可されたくらいです。

 ところが、そんなときに大問題が起こるのです。チキンラーメンのあまりのヒットに、300社以上の企業がそれぞれインスタントラーメンを作りだしたのですが、中には非常に粗悪な商品を売り出し、食べた人が体調を崩したり中には食中毒を起こす人まで出たのです。さらに粗悪なニセのチキンラーメンまで出回り逮捕者まで出る始末。

 これは大問題。そこで安藤百福さんは一計を案じます。

 昭和39年(1964年)、安藤百福さんは、自分が開発したインスタントラーメン作りの特許を公開、多くの企業が百福さんの発明したインスタントラーメン作りを採用。

 それらの企業と連携し、製造年月日を記載するなどし、一度落ちた信用を回復しようとしたのです。

 これは企業人として勇気がいる決断だったと思います。特許があるわけですから、自分の作り方は一社で独占のですから。

 しかし百福さんの考えは独占ではなく、良い技術を公開し、多くの企業と競争することで、より美味しく、より安く、より安心してインスタントラーメンを作り、粗悪な企業を締め出そうという考え方です。

 1964年、『社団法人日本ラーメン工業協会』(現日本即席食品工業協会)が設立。初代理事長は百福さんが勤めることになります。

 結果的に百福さんの考えは成功しました。いまや、インスタントラーメンは全世界で年間1000億食が食べられるようにまで成長したのです。

 そしてカップめんを開発したのも百福さん。60年代チキンラーメンをアメリカに売り込みに行ったとき、アメリカには丼がなく、商談相手の女性が、チキンラーメンをカップに割り入れて食べたのがヒントであったそうです。

 では最後にチキンラーメンのエピソードを一つ。

 清国最後の皇帝で、宮廷料理を食べまくっていた愛新覚羅溥儀が好んだのがチキンラーメンでした。

 皇帝から平民になって貧しくなったからではありません。溥儀は特権階級者として暮らしていたのです。つまりラストエンペラーはチキンラーメンが本当に好きだったようなのです。

(文:食文化研究家・巨椋修(おぐらおさむ))201901

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