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明治150年と昭和100年  

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絵:そねたあゆみ

 明治150年・・・。明治と改元されたのは、慶応4年9月8日・・・ですが、この年が他の改元の場合と違うのは、年の途中で改元される不便さを考慮したのか、それとも、単に縁起を担いだのか、「慶応4年をもって明治元年とする」としたことで、つまり、慶応4年9月8日だったにもかかわらず、慶応4年はなかったことにして、その年の1月1日に遡って新元号・明治を適用するとしたわけです。(ちなみに、当時は旧暦ですから、この年は、閏4月のある13か月間で計383日間。したがって、西暦では、1868年10月23日に改元され、1868年1月25日に遡って適用されたということになります。何ともややこしい話です。)

 また、当時は、「明治」を逆さまから読んで「治まるめい」と皮肉ったなどという話があるくらいですから、まだ、新政府が定着するかも不透明で、場合によっては、南北朝の昔のように北朝と南朝とそれぞれに元号が並立するような事態もあり得たわけで、(江戸上野の寛永寺には、仁孝天皇の猶子になっていた輪王寺宮がおり、徳川家としてはこれを担いで、正統を主張することも可能でした。)つまり、宣言されたからといって、現代人が思うほど、すんなりと受け入れられたわけではないということですね。

 ところで、元治2年、「慶応」に改元される際、候補となったのが、「乾永・文隆・大暦・万徳・慶応・明定・天政」の7案。(元治は正月を跨いでいるから2年になってますが、実際には1年チョイしかありません。つまり、これ以前は天皇の代替わりにかかわりなく、改元されていたということ。)

 で、朝廷で、それらの元号案を考えていたのは誰かというと、「勘申者」と呼ばれる改元についての諮問を依頼された学者たちで、当初は「藤原」や「大江」などの姓の人たちが占めていたようですが、鎌倉期以降になると、代わって「菅原」姓が多数を占めるようになり、「明治」を勘申した者も菅原氏だったとか。菅原といえば、もちろん、言うまでも無く、学問の神様・菅原道真の系譜に連なる人たちでしょうから、天神信仰というものが出来て以来、やはり、学者と言えば菅原氏ということになったのでしょう。

 なお、昭和100年は2025年で、これはこれでまた、いろいろと問題が懸念されているようですが、一方で、2011年は大正100年でした。が、明治150年とも昭和100年とも違い、特に話題にもならず、私も、たまたま、カレンダーを見ていて「へー、大正100年か」と。で、ふと、そのうち半分は自分が占めていることに気づき、いきなり、有り難みがなくなりました。

(小説家 池田平太郎)2019-01

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