絵:そねたあゆみ
航空機発達以前、日本から「西洋」に行くには船しかなかったわけですが、その場合、インド洋を抜ける西回りか、もしくは太平洋を渡る東回りで行くかになります。このうち、西回り航路は割合、陸伝いに行くことが出来るので、燃料や食料、水などの補給にも有利で、難破の可能性も少ないとされたのに対し、東回り航路は途中に補給地らしい補給地はハワイしかない上に、地球上で最大の太洋である太平洋を横断することになるので危険も増しました。そこで、太平洋を横断し、さらにその向こうの大西洋に抜けるにはどういうコースがあったか、日本の使節団を例に見てみると、時代の変遷が感じられ、なかなか、興味深いものがあります。
まず、有名なところでは、明治4年の岩倉使節団があります。(国の首脳の大半が一度に世界一周するなど、「遭難」ということをまったく想定しておらず・・・。いくら、アメリカ側から「大丈夫ですよ」と言われたとしても、明らかに不慣れさは否めません。)彼らは横浜を出て太平洋を横断、サンフランシスコに上陸後、大陸横断鉄道に乗り換えてアメリカ東海岸へ達しています。一方、その12年前、咸臨丸で有名な万延元年遣米使節団では(咸臨丸は正使一行が乗船する米国海軍船とは別に「護衛」名目で派遣された船。これには、万一、正使が遭難した場合の「保険」という意味合いもあったようです。)、同じく、横浜を出港し、途中、補給のためにハワイのホノルルに寄港した後、サンフランシスコに到着。そこから、アメリカ合衆国を横断・・・ではなく、そのまま船旅を続け、もっともアメリカ大陸が細くなる地パナマに上陸。ここを汽車で横断し、再び船に乗り、ようやくワシントンに到着しています。つまり、大陸横断鉄道もパナマ運河もまだ無かったわけですね。
そして、その前に日本人が使節団として太平洋を渡った・・・となると、いきなり飛んで、これより247年前の仙台藩主・伊達政宗の家臣、支倉常長による慶長遣欧使節団になります。(コースは、ほぼほぼ万延元年遣米使節団と同じですが、当然、まだ汽車はなく。)これが初めての・・・と言いたいところですが、実は初めては、その3年前に家康がメキシコの国情視察目的で送り出した大坂、堺、京都の商人20名となります。もっとも、彼らはメキシコ止まりで大西洋を渡ることはしていませんが。ちなみに、この使節一行についての現地側の記録。「全員着物を着ており、サンダル(草鞋?)を履いて、鷲のような歩き方をする。頭の表面をきれいに剃って、そこだけ光沢があり、チョンマデを結っている」。
(小説家 池田平太郎)2019-07